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カテゴリ:激動の20世紀史
10月21日、この日民主党と共和党を問わず、議会の重鎮たちが密かに緊急招集されました。 ジャックことジョン・F・ケネディ大統領やロバート・S・マクナマラ国防長官は、議員たちにミサイル発見の経緯、この後の政府の方針と対策の説明がおこなわれました。 しかし会議場で大統領が浴びせられたのは罵声と非難の声だけでした。 「ピッグズ湾の失態がこの危機を招いたのだ! この責任をどうつけるのだ!」 と過去の失敗を声高に叫ぶ議員や、 「(核ミサイルが配備されたのがわかったなら)なぜさっさと空爆しないのか!」 と、政府の対応策を批判する者が多く、支持する議員はほとんどいなかったと言われています。 議会の反応にジャックは相当立腹したらしく、大統領執務室に戻ると「大統領の地位が欲しいならくれてやる!」「自由にものを言える連中(言うまでもないと思いますが、議員たちのことです)が羨ましい。彼らは自分の発言に責任をとる必要がないのだ。全て大統領の私がとらなくてはならないのだからな」と、実弟ロバート・F・ケネディ司法長官とケネス・オドネル大統領補佐官に愚痴っています。 「兄さん、今重要なのは議員たちを納得させる事じゃない。明日のテレビ演説の方だよ」 ロバートは努めて冷静に兄をなだめました。 「・・・そうだな、国民は支持してくれるかもしれない。彼らが選んだ議員たちと違ってね」 この辺りに、決断を迫られるトップの苦悩というのが見えてきそうな気がしますね。 大統領と議員たちが激しい言葉をたたきつけあっている頃、ホワイトハウスでは大統領報道官ピエール・サリンジャーが、集まったマスコミ関係者に緊急声明を発表していました。 「明日夜7時に、全国民に向けた政府からの極めて重要な発表があります。3大ネットワーク(NBC、CBS、ABCの3社)はその時間をあけてください」 これでもう後戻りは出来ません。 一方、海上では海上臨検の主役、アメリカ海軍第2艦隊(大西洋艦隊)の各艦艇が、慌ただしくそれぞれの担当海域を目指して移動を開始しています。 中には港に帰投前に担当海域に向かった艦も多くあり、それらの艦艇には空母を仲介してヘリコプターで海兵隊の臨検要員が輸送されるなど、慌ただしいものだったようです。実質的に海上臨検は開始されたのです。 そして10月22日午後7時、テレビ演説が開始されました。少し長くなりますが、触れてみたいと思います(一字一句演説そのままではないのでご了承ください)。 「こんばんは国民の皆さん。 1つ、ミサイルの設置を阻止するため、キューバに搬入される軍事物資の臨検を開始すること、そしてキューバに向かうあらゆる国の船舶について、兵器の搭載を確認された船は、直ちに引き返しを命じること。 2つ、キューバに対する監視を強化し、ミサイルの設置が中止されない場合、しかるべき手段を講じられるよう、アメリカ軍は必要な準備にはいること。 3つ、今後キューバから西半球に位置するいずれかの国に対してミサイルが発射された場合、ソ連のアメリカに対する攻撃と見なし、直ちに報復を実行することとする」 そこで一端言葉を句切ったジャックは、ここで異例とも思える言葉を述べます。 「私は一人の人間としてフルシチョフ書記長に呼びかける。こんな無謀な挑発行為はやめにして、すぐにミサイルを撤去していただきたい。世界を破滅の縁から救えるのは貴方だけなのです」 大統領の演説により、キューバ危機はこうして白日の下にさらされました。その衝撃はアメリカ国民だけでなく、全世界を震撼させる(ウチの母鳥や友人のお母さんは除く)大事件へとなっていったのです。 一方、クレムリンでケネディ大統領の演説を冷や汗をかきつつ聴いていたのは、ニキータ・フルシチョフ書記長でした。 今回KGB(ソ連国家保安委員会)は、アメリカ陸軍の大部隊が南部に向かっているのを察知していたのですが、演習と考えて気にとめていなかったのです。これは大きな失態、失敗でした。 あと半月隠しとおせることが出来れば、ソ連とキューバは核ミサイル配備を堂々と公表して、南北アメリカ大陸のパワーバランスを大きく切り崩すことが出来るはずだったのに、言うなれば秘密を告白する前に暴露されてしまった訳ですから、後手に回った分、ソ連・キューバ側が不利になってしまったのです。 ケネディ大統領の演説の翌23日、フルシチョフは声明を発表しました。 「公海上の自由航行は、国際法と国連憲章によって保障されている正当な権利であり、ケネディ大統領の発言は、ソ連とキューバに対する明確な内政干渉である。 この時点で、フルシチョフはミサイル撤去に素直に応じる意志はありませんでした。 前日のテレビ演説を聞いて動揺した彼ですが、一方でジャックの演説に「攻撃」や「侵攻」と言う文言が無いことに安堵し、まだ粘って交渉するチャンスはあると見たのです。 もちろんフルシチョフに、第三次世界大戦も核戦争も起こす気はありませんでしたが、莫大な国費と貴重な核ミサイルを投じた以上、戦争が怖いから素直に相手の言い分を聞きましたでは、彼の政治生命は終わりになってしまいます。 なんとしても、労力に見合う対価は得なくてはならないと考えていたのです。 言うなれば意地の張り合いとも言える行為ですが、政治にはこのような体面が重視される場合が多々あります。 双方の思惑が交錯する中、翌24日、いよいよ臨検ラインにソ連船が接近し、それを阻止しようとするアメリカ海軍艦艇との間で、衝突が起きようとしていました。 第三次世界大戦への危険をはらみつつ、世界が固唾をのむ中(ウチの母鳥や友人のお母さんは除く←しつこい・笑)、臨検ラインの攻防が始まろうとしていました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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