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カテゴリ:激動の20世紀史
10月25日、国際連合安全保障理事会の緊急会議が、ニューヨーク本部で開催されました。 おりしも議長国はソ連で、ワレリアン・ゾリン国連大使が会議を取り仕切っていました。 エクスコム(最高執行評議会)のメンバーでもあるアメリカの国連大使アドレー・スティーブンソンは、まだ議場に姿を見せておらず遅刻していました。 常任理事国大使は本部に常駐が定められており、アドレーの遅刻はアメリカ側のマイナス点なのですが、会議での運命を制するであろう切り札(事実そうなりました)の準備に、時間がかかっていたのです。 その間に会議は、ソ連側のペースで始まりました。 ゾリンは「アメリカの行為は、キューバへの不当な侵略行為である」と批判し、キューバ大使も、「アメリカは海上封鎖によってキューバの通商を破壊し、(キューバ)国民を飢えに追い込もうとしている」と訴え、東側諸国も同調して、アメリカへの非難動議を提案するなど、ソ連に都合のよい展開になっていました。 アメリカ海軍の海上臨検によって、キューバとの連絡線を絶たれたソ連は、形勢逆転のためにアメリカの「非道」を世界に訴え、国際世論を味方につけようとはかっていたのです。 対するアメリカも、国連安保が勝負所であると正しく認識していました。 ここで国際世論の流れが、「アメリカの方が悪い、間違っている」となってしまったら、海上臨検は続行不可能になり、ソ連の核をキューバから撤去することが出来なくなります。 アメリカ大使不在のまま始まった緊急会議に、テレビで見守るジャック(ジョン・F・ケネディ大統領)やエクスコムのメンバーも、不安げにテレビを注視していました。 ここでいつものように脱線ですが、日本では無名なアドレー・スティーブンソン国連大使について、簡単に解説したいと思います。 この時アドレーは62歳、若い閣僚が多いケネディ政権の中で、一番の年長でした。 演説が巧みで性格も温厚な彼は、民主党の代表として、2回大統領選に出馬していますが、共和党のアイゼンハワーに2回とも敗れています。1960年の民主党代表選ではジャックと候補を争いますが早々に敗れ、以降ケネディ支持に回って各地を遊説しています。 彼が2度も民主党の代表に選出されたのは、演説の巧みさと温厚な性格、飾らない知性といった部分が支持されたからでしょう。しかし大統領になれなかったのも、皮肉にも彼の長所が原因だったと思われます。 現在もその傾向がありますが、アメリカ人が求める大統領像は、優しい父親ではなく、力強い父親なのです。彼は皆から好かれましたが(代表戦で競ったにもかかわらず、ケネディの評価が非常に高い点からもそれをうかがわせます)、それだけでは大統領になれなかったのです。 話を元に戻します。 遅れること1時間、アドレーが議場に姿を見せました。それをみたゾリンは、早速強烈な先制パンチを浴びせました。 「よく来てくださいましたスティーブンソン大使。欠席されるのかと心配しておりました。時にスティーブンソン大使、世界はこの数日間、貴国の一連の行動に頭を悩ませています。 世界はまだアメリカの主張する証拠を見せていただいておりません。秘密の偵察機が撮影した写真だから公表できないと仰るのでしょうか? たいした偵察機です。 しかし公表できないのは、そのようなもの(ミサイルのこと)は存在しないからではありませんか? 我が国もキューバも世界の平和を強く願っています。アメリカが言う兵器は存在しないのです。世界を危機に陥れた以上、勘違いですまされる話ではありません。この責任をアメリカはどう感じていますか?」 対するアドレーはいきなりの論戦に応じず、「議長、発言の許可を」と返しました。このままゾリンの発言に引きずられて論戦になったら、ソ連側のペースになると自制したのです。 この時ゾリンが強気だった理由は、実はキューバに自国の核ミサイルが配備されていることを知らされていなかったとも(軍の高官でも知らなかった者もいました)、証拠の写真などは軍事機密ですから、公表しないだろうと考えていたとも言われていますが、本人が回想を残さず世を去っているので、詳しい事情はわかりません。 発言の許可を得て、アドレーが口を開きます。ここから彼の火を噴くような反撃が始まります。 「ゾリン大使、お尋ねの件ですが、証拠は確かにあります。誰の目にも明らかな証拠です」 アドレーとゾリンの視線がぶつかりました。議場やテレビで中継で見ていた人達には、2人の間に、火花が散っている様が見えていたかも知れません。 「キューバにあるあなた方のミサイルは、すべて撤去願います。今回の危機を招いたのはあなた方ソ連です。我々ではない。 アドレーが合図をすると、国連のスタッフが何枚ものボードをもって、列席の各国代表に見えるよう展示しました。 それはキューバのミサイル基地の写真でした。 U2偵察機が高々度から撮影した画像に、戦闘機が低空で撮影した最新のミサイル基地の写真(海上臨検開始後、高々度からでは分かり難い基地の構造や守備隊の位置を把握するため、戦闘機による低空での写真撮影も開始されました)まであったため、議場はどよめきました。ゾリンですら、愕然とした顔で写真を食い入るように見つめました。 「ゾリン大使、私の記憶違いでなければ、先ほどあなたはミサイルの存在を否定なさっていた」 「・・・・・」 「あなたに簡単な質問をさせていただきたいと思います。ゾリン大使、ここに写っているものはミサイルではないですか? 通訳の必要はありません、イエスかノーで答えてください」 先ほどまでの流れと一転して、アメリカがソ連を圧倒する劇的な展開に、各国大使はショーを見ているように対決を見守りました。恐らくテレビの生中継でこれを見ているアメリカ国民と世界(衛星中継で、世界でも放送されていました)も同じ気持ちだったかも知れません。 ホワイトハウスでも、マクジョージ・バンディとロバート・ケネディが「いいぞ、アドレー! ゾリンを叩きのめせ!」とテレビに向かって叫んでいたと言われています。 ゾリンは沈黙しました。もしここで「ミサイルです」と答えれば、自分だけでなくソ連という国家が嘘をついていたことを認めることになってしまいます。逆に「ミサイルではない」と発言しても、どこまでも嘘を突き通すソ連という印象を世界に与えてしまうことになります。いつまでも黙っているわけにいきません。 「ここはあなたの国の裁判所ではありません。私はあなたの国の検察が、あたかも被告人にするような質問に、答える必要を認めません」 それがゾリンの返答でした。恐らく気の利いた反撃が思いつかなかったのかもしれませんが、この発言は失敗でした。ゾリンの言葉にスペインとチリの大使が、思わず失笑した場面までが、テレビで世界中に放映されてしまったからです。 「ここは世界中の代表が集まった"法廷"です。それでご返答は?」 「・・・どうぞお話を進めてください。真実は会議が進むにつれ明らかになるでしょう」 ここで会議の勝敗を決定づける名言を、アドレーが口にします。 「I am prepared to wait for my answer until Hell freezes over (私は、地獄が凍りつくまで回答をお待ちする所存です)」 この台詞(前半の「地獄が凍りつくまで」と言うところなど)を、海外ドラマや小説なりで、聞いたことがある方は多いのではないでしょうか。原典はアドレー・スティーブンソンの発言でした。彼の名前を知らなくても、彼の言葉は、これからもドラマや小説の中で、生き続けていくことになるのでしょう。 議場に大きな拍手が巻き起こりました。西側諸国だけでなく、インドやエジプトなどの非同盟諸国の大使からも、アドレーに惜しみない賛辞が贈られたのです。 さすがに百戦錬磨の外交官ゾリンが、慌てふためくことはありませんでしたが、険しい表情になるのは避けられませんでした。 この後彼は一切の返答を拒否して黙秘を貫き、ミサイルについて言質を与えることはありませんでしたが、「ソ連が嘘をついている。アメリカの主張が正しい」という国際世論が形成されるのを阻止出来ませんでした。 第2ラウンドもアメリカ側の勝利で幕を下ろしました。 こうしてみていると、アメリカが優位に進んでいるように見えますが、しかし実際はそうでもありません。 確かに海上臨検の成功、国連での勝利で、国際社会のソ連への圧力、アメリカへの支持は大きくなりました。しかしそれでキューバにある核ミサイルが、消えてなくなるわけではないからです。 ソ連がミサイルの撤去を拒否し続けるなら、核戦争の危機はこれから先も消えないのです。 海上臨検の提案者であるロバート・S・マクナマラ国防長官が最初に断言したように、海上臨検自体にミサイルを撤去させる力はないのです。 事実、この時キューバでは、近日中に開始されるであろうアメリカ軍の侵攻に備えて、キューバ駐留ソ連軍4万名、キューバ軍20万名は臨戦態勢を整え、戦術核搭載の短距離ミサイルの発射基地を完成させるなど、急ピッチで戦争準備を整えつつありました。 危機はまだ解決の糸口すら見いだしていなかったのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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