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カテゴリ:激動の20世紀史
繰り返しになってしまいますが、キューバ危機は1962年10月14日から10月28日までの2週間の出来事です。 時間軸では、前回のブログ国際連合安全保障理事会の緊急会議でのアドレー・スティーブンソン米国連大使とソ連のワレリアン・ゾリン国連大使の対決が10月25日でしたから、危機も残り3日間となります(まぁ後日の視点でけどね。当時の人達にとっては、いつ危機が戦争になってしまうかと戦々恐々だったと思います)。 そしてキューバ危機が本当の意味で危機に陥るのは、次の10月26日から(特に次のに27日は「暗黒の土曜日」と言われる事になります)でした。 このまま26日の話に入っていってもいいのですが、それだと何故事態が悪い方向に激変してしまったかが分かり難いと思いますので、ここでソ連・キューバ側の動きに触れてみたいと思います。 ただ、アメリカ側の資料が豊富であるのに対して、こちらの資料はとても少なく、中々描くのが難しい所があります(汗)。 危機の発覚以来、もっとも緊張状態に置かれていたのは、キューバのフィデル・カストロ首相であり、キューバ国民、そして駐留ソ連軍部隊でした。 彼らはアメリカ軍の侵攻が開始されれば、真っ先に矢面に立たされる立場にあります。 キューバはソ連本国からあまりに遠く、さらにアメリカ海軍の海上臨検によって、連絡線を遮断されており、脱出も援軍も期待出来ません。 カストロは、フルシチョフが断固たる姿勢をとることで、海上臨検を打破してくれることを期待していましたが、それも失敗し、国際世論もアメリカに味方し焦燥を募らせていました。 そんな中、キューバ駐留ソ連軍を失望させる命令が届いたのは、米ソの国連大使が激しい戦いを繰り広げていた10月25日でした。 「キューバ軍と協力して、侵攻してくるアメリカ軍の迎撃準備に全力を挙げよ。ただし核ミサイル部隊・核弾頭管理部隊は、本国の指令あるまで現状待機せよ」 この命令は事実上、核兵器を使用することを禁じるものでした。 キューバ駐留ソ連軍司令官イッサ・ブリーエフ大将は反発しました。モスクワの命令は、現地の危機的な実情を知らない無責任な意見に思えたのです。 せっかく核兵器があるのに使用出来ない、武器弾薬の補給も援軍も期待できず、退却も出来ない(大西洋を泳いでソ連まで帰ることは出来ませんし・・・)では、4万の将兵を預かるブリーエフとしては、本国の反応に、不満と反感を抱くのも無理ありません。 ブリーエフはせめて戦術核兵器(戦略核が都市1個を消滅させて何百万人もの人々を殺傷する力を持つなら、戦術兵器は戦場で使用して数万人の敵を全滅させる程度の、「威力の小さい兵器」ということになります)の使用許可を、モスクワのマリノフスキー国防相に打診しました。 再三のアメリカ軍の航空偵察によって、ソ連軍とキューバ軍の基地の所在は、ほとんど米軍に把握されてしまっており、核兵器の使用以外に劣勢を挽回する手だてがなかったのです。 しかし当然ながら、モスクワはブリーエフを聞き入れるわけにはいきません。例え戦術核とはいえ使用してしまったら、ソ連とアメリカは全面核戦争に突入し、ソ連本土も核の業火に包まれる最悪の事態になるかもしれないからです。 「(核兵器の使用を禁じた)命令を、同志ブリーエフは受領済みのはずである。諸君の勇気と反撃準備態勢を信頼している。 追伸、核を許可なく使用することは絶対的に禁止である。全部隊への命令遵守を徹底せよ」 と、キューバにいるブリーエフから見れば、非情な命令が繰り返されるだけでした。一方、マリノフスキーの方は、現地の情勢切迫を理解すると同時に、キューバ駐留ソ連軍に暴走の気配を感じたようです。ニキータ・フルシチョフ書記長に、司令官更迭を進言しています。 しかしこの時点での司令官更迭は、指揮系統の混乱やむしろ暴走を後押ししてしまうなどのマイナス面が大きい判断され、進言は却下されました。 翌26日、フルシチョフはケネディ宛に長い親書を送りますが(その話は次回のブログで書きます)、彼自身もカストロ議長から悲痛な親書を受け取っています。 「同志フルシチョフ、現在の情勢ならびに我が国が知り得る限りの情報を総合すると、アメリカ帝国主義の攻撃は、24時間から72時間以内に起りうるとの結論に達した。 攻撃の形には二つの可能性がある。まず第一に、特定の目標を破壊するための限定的な攻撃である。今一つは侵略である。 米軍にとって後者の実行には多大な戦力を必要とし、我々にとっては、最も忌まわしい形態だ。しかし、我々は断固として、いかなる侵略にも決然として戦う。キューバ国民の志気はますます高まっており、侵略者に対して英雄的に戦うであろう」 カストロの分析は、的外れというわけではありません。この頃、アメリカのキューバ侵攻軍の陣容は整いつつありました。 作戦行動可能な航空機は約1千機、海上戦力は海上臨検中の第2艦隊、空母エンタープライズ、インデペンデンスを中心とした128隻の艦艇をそのまま転用して、いつでも作戦行動が可能な状態でした。 また上陸部隊の第一陣は、第2海兵師団と陸軍第1機甲師団が輸送船団に乗船済みで、第82,101の2個空挺師団も出撃準備が完了し、後続部隊を併せて総兵力34万名が、命令一下キューバへ侵攻することが可能な状態になっていました ブリーエフ大将が平静を失っていたのも道理で、もし戦闘となれば、アメリカ軍は圧倒的な空軍と海軍兵力でキューバ駐留ソ連軍をキューバに押し込め、鉄と火の奔流をもって押し寄せてくるでしょう。戦術核兵器を使用しなければ、全滅は時間の問題でした。 とここで、もしかしたら「アメリカは外交交渉でといいながら、戦争準備しているじゃないか」と思われる方もいらっしゃるかも知れませんから、簡単に説明します。 平和的に解決したいのは、アメリカの本心なのは間違いありません。 しかし交渉が決裂してから戦争の準備をしたので間に合いません。 外交は常に実力行使(戦争や経済封鎖など)と交渉の二本立てなのです。実力行使を伴わない交渉は、相手にいいようにはぐらかされて利用され、かえって事態を複雑にしてしまう場合があることは、知っておいて損はありません。 ・・・まぁ、その辺はどことは言いませんが、とある国と隣国との外交交渉を見ているとよーくわかるかなと思います(苦笑)。 カストロからの親書を読んだフルシチョフは、側近たちにひと言も感想を述べなかったと言います。しかしそれは何も感じていなかったからではなく、むしろ逆に重圧に押しつぶされそうになって苦しんでいたからでしょう。 いつもは陽気でよくしゃべる彼が、は別荘に引きこもり、気難しく無口でイライラしているように見えたとは側近の証言ですが、22日のケネディ大統領の演説以来、ほとんど不眠不休状態のフルシチョフの体力と精神力は限界に近づきつつあったのです。 26日の深夜、ブリーエフは幕僚たちを集め、重大な命令を下しました。 「これ以上、アメリカの偵察機の偵察行動を黙認していれば、我々の戦闘準備は敵に対して完全に筒抜けになり、戦争は完全に我が方の不利になる。したがって、我々は敵機に対する通常兵器によるあらゆる軍事行動を決定しなくてはならない」 キューバ軍は、すでに飛来する米軍偵察機に対して攻撃を実施していましたが(ただし1機も撃墜できませんでした)、ソ連軍は本国の命令により1発も発砲していません。 この点もキューバ兵とソ連兵の間に、微妙な雰囲気を作っていました。キューバ兵からすれば、戦おうとしないソ連兵はソ連の安全のみを考え、キューバを守る気がないのではないかと不信感を抱きはじめていたのです。 遠き異国の地で孤立しているソ連兵からすれば、キューバ軍との連携や、キューバ人たちの支援がなければ、彼らはアメリカ軍と戦う前に自滅してしまいます。 ブリーエフはこの点でも追い詰められていたのです。 このような中、翌27日、「暗黒の土曜日」を迎えることになります。お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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