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カテゴリ:激動の20世紀史
キューバ危機がいまだ解決の糸口がつかめていない1962年10月26日、この日、2つの事件が起きています。 1つは海上臨検で初めて臨検船が出ました。 マルキュラ号というレバノン船籍の船で、ずっと無寄港で航行していたため、米ソ間の対決も臨検も知らなかったのです。 それが唐突に現れた米駆逐艦(今回も捕まえたのはピアースでした)から停船を求められ、理解できずに逃亡を図ったため、警告射撃を受けて停船、臨検される羽目になりました(マルキュラ号は武器などは積んでいなかったので、すぐにキューバ行きを許可され解放されました)。 もう一つはかなり深刻な「事件」です。 空参謀総長カーチス・ルメイ空軍大将の命令で、なんとアメリカ空軍戦略航空団のB52戦略爆撃機(核爆弾搭載可能です)隊がキューバ近海で大規模な演習を行ったのです。 この報告に、ジャック(ジョン・F・ケネディ大統領)は激怒しましたが、とうのルメイはどこ吹く風で、「通常訓練の一環です」と平然と答えました。 「ルメイ将軍、自分が何をしたかわかっているのか! フルシチョフはアメリカに戦争の意志有りと判断したことだろう。私が望みもしないメッセージを勝手にソ連に送りつけたのだ!」 事実、米軍機の大編隊をレーダーで捉えたキューバは、「アメリカの攻撃!」と緊張し、フィデル・カストロ首相はソ連大使館に赴き、前回のブログで触れました親書をニキータ・フルシチョフ書記長に送っています。ジャックの言うとおり、最悪のメッセージだったのです。 「大統領閣下、B52に核爆弾は搭載しておりません。それに部隊に命令を下す権限は私にあります」 ルメイの言葉は、一層ジャックに逆鱗に触れました。 「合衆国軍の総司令官は大統領の私だ! もういい下がれ! 後で覚えてろよ!」 ルメイが退出したあと、ロバート・F・ケネディ司法長官が兄に声をかけました。 「兄さん、ルメイを解任するかい?」 ルメイは自他共に認める対ソ強硬派です。このタイミングで彼を解任すれば、今度は「侵攻計画は中止になった」「アメリカは譲歩するだろう」という誤ったメッセージをソ連に送りかねないのです。フルシチョフがキューバ駐留軍司令官イッサ・ブリーエフ大将を解任しなかったのと同じ種類の理由です。 政治というのは本当に厄介です・・・。 午後18時、モスクワのアメリカ大使館から、「フルシチョフ書記長から親書届く」の報告がきて、ホワイトハウスは緊張に包まれました。 親書はテレックスでワシントンに送信されましたが、量が膨大で受信になんと3時間もかかっています(当時はアナログ回線だけでで、今のような光回線や高速モバイル通信はありませんでしたからねぇ)。 「親愛なる大統領閣下 かなり回りくどい表現ですが、アメリカが今後キューバに侵攻しない、カストロ議長の暗殺や政権転覆を画策しないことを約束するなら、キューバの核ミサイルを撤去してもよいという内容でした。 「本当にフルシチョフ本人が書いたものか?」 ロバートが質問をしました。 「CIA(アメリカ中央情報局)の分析官が言うには、フルシチョフ本人が書いたのは間違いないそうだ。感傷的で回りくどい文章なのは、本人が非常に強いストレスの中で書いて、政治局などの手直しを受けていないからだとね。恐らく、フルシチョフは何日もまともに寝ていないのだろう」 と、ジョン・マコーンCIA長官が答えました。ロバートは顔をほころばせると、毒舌家の彼らしい冗談を飛ばしました。 「よかった。寝てないのは僕たちだけじゃなかったんだ」 その言葉にエクスコム(最高執行評議会)のメンバーたちは笑い合いました。 27日午前9時、エクスコムのメンバーに招集がかかりました。フルシチョフから第2の親書が届いたからです。「暗黒の土曜日」の始まりです。 親書を読んだメンバーは、全員が凍り付き、言葉を失いました。 「我が国がキューバからミサイルを撤去する条件として、貴国もトルコ国内に配備しているミサイルを撤去しなくてはならない。 エクスコムは騒然となりました。 ある者は、「第1の書簡はフルシチョフ本人が書いたものだが、第2の書簡は別人が書いたものだ。フルシチョフは失脚したか、殺されのではないか」と主張し、別の者は、「我々は一杯くわされたのだソ連は最初からミサイルを撤去する気などなかったのだ。ミサイル基地完成の時間稼ぎをされてしまった!」と考え、紛糾しました。 もしアメリカがソ連の「提案」を受け入れた場合、ソ連の核の恫喝に屈したことになってしまいます。アメリカとNATO諸国との間で関係が悪化するのは確実でした。絶対に飲めないものでした。 この時、フルシチョフの「変節」の理由を正確に洞察できた者はアメリカ側にいませんでした。 2通の親書は、間違いなくフルシチョフ本人が書いたものでした。 第1の親書にあったように、フルシチョフはアメリカがキューバを侵攻しないことを確約するなら、ミサイル撤去に応じる決心を固めつつありました。しかしソ連の保守派や強硬派は、それに反発しました。 自分たちになんの相談もないまま(決定はフルシチョフと一部の側近だけでした)キューバに核ミサイルを配備し、あまつさえアメリカの「恫喝」に怯えて、ミサイルを引っ込めようというわけですから、ソ連のメンツは丸つぶれです。強硬派と保守派の中にはフルシチョフの失脚を謀る動きも起きはじめていました。 自業自得とはいえ、この動きに焦ったフルシチョフは、「トルコのアメリカのミサイルを撤去させる」という成果をなんとか手に入れることで彼らをなだめ、権力維持をはかろうとしていたのです。 こういう言い方をすると、自己保身かと思われるかも知れませんが、フルシチョフは自分を失脚させた後に出る人物は、恐らく対米強硬派となり、キューバにある核ミサイルの使用を躊躇わないと危惧したのです。それは世界を巻き込んだ全面核戦争の道でした。 少なくとも彼は、キューバからミサイルが撤去完了するまでは、書記長の座を守らねばならなかったのです(フルシチョフは、第2の親書をわざと素っ気なくすることで、アメリカ側に気がついて欲しいというサインは出しています)。 第2の親書を巡ってアメリカが疑心暗鬼に陥る中、最悪の凶報が届きました。 27日15時30分頃、キューバを偵察飛行中のルドルフ・アンダーソン少佐が操縦するU2偵察機が、キューバ駐留ソ連軍の地対空ミサイル部隊の攻撃によって撃墜され、アンダーソン少佐が戦死しました。 キューバ危機で初めて(そして唯一の)犠牲者が出たのです。 これにより事態は急転、核戦争の危機が一気に現実味をおびることになります。 次はさらに緊迫する「暗黒の土曜日」、その後半です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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