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カテゴリ:プラモデル・大戦機
零戦最後の派生型「A6M8」は、54型もしくは64型と呼ばれています。 完成したのは試作機2機のみでしたが、エンジンを「栄」(21型までは栄一二型(離昇940hp)、32型以降は栄二一型(離昇1130hp))から金星六二型(離昇1560hp)に変更し、全体的に無理のない性能向上が実現した機でした。 ポテンシャルの高さから、実戦配備が早ければ相応の戦果を上げられたろうにと、遅すぎる完成に恨みを残す機です。 三菱重工業(零戦の開発メーカー)が、零戦の発動機を栄(中島飛行機(現・富士重工業))から自社製金星エンジンに変更したいという案を出したのは、零戦32型の量産が開始された昭和17(1942)年4月でした。 零戦32型は、馬力が向上した栄二一型によって高速化を図るというコンセプトで開発が進められたのに、栄二一型の馬力が期待はずれで、満足に性能が向上しなかったからです。 三菱で開発され、実用試験段階まで来ていた発動機、金星六二型は、栄二一型より400馬力も出力が高く、大幅な性能向上が期待できました。しかも自社製ですので、不具合があってもすぐに社内調整できますから、欠陥が見つかっても中々知らせてくれないライバル会社とは異なり(三菱と中島は、当時の日本航空業界の双璧で、ライバル関係でした)、開発・生産の効率化も図れると考えたのです。 しかし三菱の提案は海軍に一蹴されます。 故障率が低く整備しやすい栄エンジンの安定した性能に、海軍は絶大な信頼を寄せており、エンジン換装は、開発と生産の遅延、実戦部隊での稼働率低下を招くと考えたのです。 三菱から二度目のエンジン換装案が出されたのは、零戦52型がロールアウトした昭和18(1943)年8月頃でした。 零戦52型の発動機は変わらず栄二一型でしたが、エンジン排気を推力向上に利用した推力式単排気管方式を採用し、速度や上昇力が向上しました。しかし重量が大幅に増加したため、操縦性や格闘戦性能の低下を招きました。また懸案の防弾性能強化も、あまり手をつける余裕はありませんでした。 エンジンの馬力は変わらないので、1つの性能を伸ばすと他の性能が落ちるという悩ましい状態になったのです。栄エンジンではもうこれ以上の性能向上は限界でした。 しかしこの時も海軍の返事はNOでした。 戦訓から零戦の性能向上要求はどんどん大きくなっていくのに、馬力が頭打ちの栄では対応できません。そのジレンマに、堀越二郎技師(零戦の主任設計者)も相当苛立ったようで、「(零戦に)栄を採用したのは間違いだった」と戦後回想しています。 3度目の正直、海軍がOKサインを出したのは、最初の提案から2年以上過ぎた昭和20(1945)年2月末になってからでした。 この頃海軍の関心は、川西航空機(現・新明和工業)の局地戦闘機「紫電改」の量産配備に移っており、零戦の性能向上に興味を無くしていたのです。 社内研究という口実で、「零戦54型」として密かに設計を続けていた三菱は、試作1号機を2ヶ月後の4月に完成させています。海軍の無関心とは対照的に、三菱は力を入れていたのです。
こうして誕生した零戦54型は、カタログデータ的には52型とあまり変わりませんが、搭乗したテストパイロットたちは、「21型並みの格闘戦性能、52型を上回る速度に、安定した高々度性能」と、高い評価をしました。 これも金星エンジンの余裕ある馬力の賜でした。 エンジン出力に余裕があるため操縦系統の負担が大幅に減り、21型並みの高い格闘戦性能が復活したのです。 また重量増加を伴う、防弾装備(燃料タンク全面に防弾ゴムを設置し、自動消火装置も装備しました。またコクピット周りも防弾板が初めて装備されました)の設置や、機体外板を厚くして機体強度を補強しても、スピードは落ちなかったのです。 反面、エンジンが大型化したため、機首の機銃は廃止され、金星エンジンは燃費が大きいため航続距離が低下しましたが、52丙型の機体を流用すれば変わらず4挺の機銃を装備できましたし、日本本土での戦闘が主体となったため、航続距離が多少低下しても問題視されませんでした。 げんきんなもので、好評なテスト結果に驚いた海軍は、零戦「A6M8」の量産を決定します。 というのも、期待の紫電改は生産がはかどらず、零戦の後継艦上戦闘機「烈風」も開発が遅延し、量産配備に時間がかかる状態だったので、52丙型、62型(52丙型に爆弾搭載機能をつけた機)の機体に、エンジンを換えれば基本的に事足りる零戦「A6M8」に、俄然注目するようになったのです(ただし海軍は、特攻専用機としてしか考えていなかったとも言われています。あくまで制空戦闘機として性能向上を目指していた三菱とのギャップは、依然大きかったようです)。 海軍は新たに爆弾搭載能力を要求してきたため、52丙型ベースの54型ではなく、62型をベースににした64型として正式採用されました。 しかし量産決定が終戦直前の昭和20(1945年)年7月だったため、量産機は1機も完成せず(B29の空襲で金星エンジンの生産ラインが破壊されてしまったため、量産機を作りようもなかったのですが・・・。ここでも海軍の反応の鈍さが仇となっています)、実戦に一度も出ることなく終わりました。 この機が幻で終わってしまったのは、栄エンジンに固執した海軍の航空行政の失敗が大きかったといえます。上でチラッと書きました烈風の開発遅延も、三菱が自社のハ四三(離昇2200hp)搭載を主張したのに、海軍は中島製の誉(離昇2000hp)にこだわり続けたことが原因の一つでした。 陸軍では、エンジンの不具合と生産遅延に悩まされた三式戦闘機「飛燕」を、金星エンジンに換装し、五式戦闘機として再生させることに成功していたことを考えると(こちらも「あと一年早ければ・・・」と悔やまれています。エンジンの安定した五式戦は、格闘戦なら世界最強のレシプロ機米軍のP51戦闘機と互角以上に戦える戦闘機でした)、零戦「A6M8」は海軍上層部の無理解から、誕生する機会を逸した残念な結果に終わりました。 せめて1年早く量産が進んでいたら、戦況を逆転させることは出来なくても、いま少し犠牲を減らし、零戦の「悲劇の戦闘機」としての汚名を、幾ばくかはらせたかもしれません。 今回作ったのは試作2号機仕様なので54型になります。 カウリング(エンジンカバー)が他の零戦とくべて一回り大きく、スピナー(プロペラ軸カバー)もとんがって大きく少々不格好で、スマートな零戦らしからぬスタイルになっています。この辺は同じエンジンを搭載した彗星33型(艦上爆撃機)のものを流用したようです。 近年まで資料が発見されず、存在も知られていなかった零戦54型/64型ですが(試作機も米軍に接収後されテストの後、どうなったかについてわかっていません)、もし実戦に出ていたらどうだったでしょうねぇ。
プラモデルキット 「ハセガワ 1/48 三菱 A6M8 零式艦上戦闘機 54/64型」
零戦五四/六四型(A6M8)データ 全幅 11.0m お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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