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2013.06.21
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カテゴリ:プラモデル・艦艇

DSCF1189.jpg 

かなり間か空いてしまいましたが、プラモで作った戦艦武蔵の最初で最後の戦闘となったレイテ沖海戦について書いてみたいと思います。

といってもいきなり書き始めると、状況がさっぱりになってしまうので、今回は脱線して、レイテ沖海戦にいたる背景を中心に書きたいと思います。

まず、レイテ沖海戦というのは、昭和19(1944)年10月に行われた日米の海戦の広い意味での総称です。

・戦艦武蔵が戦って沈んだシブヤン海海戦(10月24日)
・戦艦山城、扶桑らが米戦艦隊と戦ったスリガオ海峡海戦(10月25日未明)
・日本空母機動部隊最後の戦いエンガノ岬沖海戦(10月25日)
・サンベルナルジノ海峡を突破した戦艦大和以下の栗田艦隊と、米護衛空母部隊が鉢合わせて遭遇戦となったサマール沖海戦(10月25日)

と、4つの海戦が発生しています。

今回は(などという書き方をすると、他の3つの海戦の話も書こうなどと考えて、少なくとも3隻は作らなければならない事にになるわけですが・・・)武蔵メインの話なので、シブヤン海海戦について触れていこうと思います。

さて当時の情勢ですが、マリアナ沖海戦(昭和19(1944)年6月)の敗北で、日本は空母機動部隊は戦力を喪失、サイパン島、テニアン島等、マリアナ諸島が陥落して、絶対防衛圏は崩壊、事実上太平洋戦争の勝敗は決しました。

意外に思われるかも知れませんが、日本政府・軍上層部でもその事は正しく認識していました。

ではなぜマリアナ沖海戦から1年以上も戦争が続いたのかですが、結論から言えば講和の機会を日米双方とも作れる環境になかったからです。

この問題はアメリカ側から見た方がわかりやすいと思います。

アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、1943(昭和18)年1月に無条件降伏方針を発表します。

これは日本やドイツが講和を求めてきても応じず、徹底的に相手国を破壊し全面降伏に追い込むまで戦争をやめない、相手側の条件(日本で例えれば、天皇制の護持など)を一切認めないという、敵対交戦国からすれば過酷すぎる内容でした。

アメリカがこのような主張をする事に至った理由は、ソ連に対する配慮でした。

1943年時点、欧州でドイツ軍と激しく戦っているのはソ連だけでした。

スターリンは、アメリカはドイツとソ連を共倒れさせようとしているのではないかと疑って、アメリカとイギリスに強い不信感を持っていました。

そのためことあるごとに莫大な軍事物資の支援と、欧州のおけるアメリカ軍の本格的な反攻を要求し、それが容れられなければ、ドイツと単独講和することをほのめかしていました。

ソ連が戦争から脱落すれば、アメリカの戦争計画は根本から崩れてしまいます。そのためルーズベルトは、ソ連をなだめ安心させるために、ドイツと最後まで戦う、ソ連を見捨てないとアピールをする必要があったのです。

この方針に対してイギリスのチャーチル首相は、「敵の降伏を認めないと言うことになれば、相手の最後の一兵を倒すまで戦争が終わらなくなってしまう」と不安視しましたが(最初は共同宣言を拒否しています。またアメリカ政府内でも、コーデル・ハル国務長官は無条件降伏方針に反対しています)、アメリカの援助無しではイギリスの戦争継続は不可能でしたから、最終的には同意せざるを得ませんでした。

チャーチルの危惧は当たり、日本もドイツも敗色が濃くなるにつれ、講和への動きが活発になりますが、いずれも無条件降伏方針によって講和の糸口を作れませんでした。

そういう事情から、マリアナ諸島の陥落により、戦争継続は無理と考えるようになった日本でも、なんとかアメリカ軍に大きな打撃を与えることで、アメリカ国内の厭戦気分を煽って、それによって条件を少しでも緩和させて戦争終結に持ち込むという(一撃講和論)、勝算の少ない可能性に賭けるしかなかったのです。

日本側が決戦場として想定したのはフィリピンでした。

もしフィリピンを失えば、日本は南方資源地帯からの資源輸送は完全に途絶し、日干しになってしまいます。そして戦前アメリカの植民地であったフィリピン奪還は、メンツにかけて行われるだろうと考えたのです。

もっともアメリカ政府・軍部で、フィリピン奪還の意見統一が決まったのは、昭和19(1944)年8月と意外に遅いものでした。

フィリピン攻略を強硬に主張する陸軍のマッカーサー元帥に対して、ルーズベルト大統領も海軍のキング大将(作戦部長兼合衆国艦隊司令長官)、ニミッツ大将(太平洋艦隊司令長官)は、日本の抵抗が激しいと考えて消極的でしたが、メディアを味方につけたマッカーサーに世論の後押しがあったこと、ルーズベルトも自身の大統領選対策として、フィリピン奪還は格好の宣伝材料であることから、政治的妥協で、フィリピン侵攻が決定したのです。

昭和19(1944)年10月、米軍はフィリピン攻略に当たり、日本軍の航空基地の破壊を意図して、沖縄、台湾へ空母機動部隊(17隻の航空母艦を含む95隻の艦艇と、約1千機の艦載機)による大攻勢をかけました。

この時発生したのが幻の大戦果と言われる台湾沖航空戦です。

米軍の攻撃に対して、日本側も陸海軍あわせてのべ1千機もの航空機を出撃させて反撃し、米空母10隻以上、戦艦2隻以上の撃沈と発表しますが、実際には米軍に沈没艦は1隻もありません(重巡洋艦2隻が大破したのみ)。艦載機の消耗も約90機でていますが、このぐらい損害は米軍にとっては許容範囲のものでした。

逆に日本側は300機を超す航空機を失い、のちのフィリピン戦で、効果的な航空支援が出来なくなってしまいます(そのため、特攻という手段がとられることになります)

特に致命的だったのが、空母機動部隊に配属予するため、訓練を続けていた飛行隊が軒並み壊滅してしまったことで、練度不足の寄せ集めの艦載機隊で戦わざるを得なかったエンガノ岬沖海戦は、日本側の惨敗で終わります。

なぜこんなにも戦果誤認が起きたかというと、攻撃のほとんどが夜間攻撃であったため、確認が難しかったのです(元々戦果確認自体、昼間でも誤認しやすいものなんですけどね)

例えば撃墜された日本機の黒煙や火災を米艦が炎上していると勘違いしたこと、偵察機の報告が、司令部で重複してカウントされてしまい、戦果が膨らんでしまったことなどがあげられます。

報告を都合よく解釈をしていった結果、とんでもない大戦果が生まれてしまったのです(ただし当初から、大本営では戦果を疑問視する声はありましたが、否定する材料もなかったため、うやむやにされてしまったのです)

ただ、戦いの後、壊滅したはずの米艦隊を海軍の偵察機が発見し、発表した戦果が誤報であることがわかりましたが、海軍は面子を優先して、陸軍に真実を伝えようとしませんでした(台湾沖航空戦は陸軍機も参加していましたが、陸軍のパイロットは洋上飛行が苦手なため、米空母への攻撃は海軍がほぼ担当していました)

そのためレイテ島に米艦隊が現れたとき、陸軍は「先の戦いで生き残った敵が逃げ込んできただけ」と考えていたところを、米機動部隊に急襲され大損害を受けました。陸海軍合わせて30万名を越す戦死者(日本側のみの数字です)を出すフィリピンの戦いはこうして始まりました。

・・・と、概略を書いていたら脱線しすぎて、武蔵の武の字も出てこなかった(汗)。

次は足早になんとかしたいと思います(汗)。






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Last updated  2013.06.25 20:35:57
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