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カテゴリ:プラモデル・艦艇
今回、珍しく続きの更新が早く出来ました。 どうも筆が乗るというか、すいすい書ける時あるんですよね(笑)。そう言うときにさくさく進めないといつの間にか書けなくなっちゃうので(フィンランドの話、途中で止まってしまってますし・汗)、他の予定無視してでもやった方が良いみたいです。 というわけで、シブヤン海海戦続きです。・・・今回も武蔵申し訳程度しか出てませんが(汗)。 1944(昭和19)年10月18日、米軍レイテ島来襲の報に、大本営は捷一号作戦を発動しました。リンガ泊地にいた日本海軍第二艦隊(司令長官栗田健男中将の姓をとって栗田艦隊と呼ばれています)にも出撃命令が下りました。 実はこの時点で、先の台湾沖航空戦が誤報であることは栗田艦隊に伝えられておらず、「レイテ湾に逃げ込んできた手負いの米艦隊による侵攻」と考えられていました(ただし、栗田艦隊では、手負いの米艦隊でもこちらより戦力は上と、冷静に受け止めていたようですが)。 同日、リンガ泊地を出港した栗田艦隊は20日、ブルネイに到着しました。この時の栗田艦隊の陣容は、戦艦7隻、重巡洋艦11隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦19隻でした。 数の上では強力な戦力に見えますが、航空母艦がいません。 航空機の援護を受けられない水上艦艇のみの艦隊では、有効な戦力になり得なくなっていました。海戦の主体は、大口径砲を搭載した戦艦ではなく、空母と航空機の時代になっていたからです。 さらに大型艦を潜水艦から守る役割の駆逐艦の数が少なく(本来戦艦7隻もの艦を護衛するなら、駆逐艦は倍は必要です。最も日本の駆逐艦は、対潜兵装が貧弱なので、返り討ちにあう方が多かったんですけどね)、対潜哨戒もろくに出来ず、潜水艦の襲撃に対して無防備な状況でした。この事は、ブルネイから出発翌日10月23日、まざまざと思い知らされることになります。 話を元の戻します。ブルネイに着いた栗田艦隊はそこでタンカーの到着を待つ間(急な出撃だったため、タンカーの準備が間に合わなかったのです)、艦長たちに作戦の説明が行われました。 まず、瀬戸内海にいる第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将。空母4隻、航空戦艦2隻を含む空母機動部隊)が南下して囮になって、フィリピン近海にいる米空母機動部隊を北方に釣り上げる。その隙に栗田艦隊がレイテ湾に殴り込みをかけ、上陸中の米輸送船団を殲滅するというものでした。 すでに日本陸海軍の航空戦力は、先の台湾沖港空戦で消耗しており、レイテ島に上陸中の米上陸軍を壊滅させることは無理ですが、超弩級戦艦大和、武蔵以下の戦艦隊の艦砲射撃があれば、輸送船団にも上陸部隊にも大打撃を与えることは可能なはずでした。 しかし空母を持たない栗田艦隊では、米空母機動部隊の攻撃を突破してレイテ湾にたどり着けません。なので米軍が小沢艦隊の空母を見つければ、「南から来る戦艦部隊は囮、北の空母部隊が攻撃の本命」と考えるでしょう(事実そう考えました)。 日本にとっは宝石より貴重な空母を犠牲にしようというわけですから、なんとしても作戦を成功させて、アメリカ軍部隊に大損害を与え、講和の道を開くという背水の陣でした(もっともフィリピンがダメだと、今度は「沖縄決戦」「本土決戦」と、泥縄式に何度も背水の陣が出てくるダメダメな状態になっていくわけですが・ため息)。 10月22日、栗田艦隊はレイテ島目指してブルネイから出撃しました。 艦隊は栗田中将指揮の第一遊撃部隊第一部隊・第二部隊(戦艦大和、武蔵、長門、金剛、榛名以下、重巡洋艦10隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦15隻)と、西村祥治中将指揮の第一遊撃部隊第三部隊(通称西村艦隊。戦艦山城、扶桑以下、重巡洋艦1隻、駆逐艦4隻)の二手に分かれました。 栗田艦隊は、パラワン島の西側を北上し、ミンドロ島の南側を通過してシブヤン海に入り、ルソン島とサマール島の間にあるサンベルナルディノ海峡を通過後、南に進路をとってレイテ島を目指すコースをとり、西村艦隊は、南のミンダナオ島の北側を通ってスリガオ海峡を通るルートをとりました。 本当はブルネイからレイテ島を目指すなら、スリガオ海峡ルートが近道なのですが、それ故に米軍の警戒が厳しいと考えられていました。そして西村艦隊の戦艦山城、扶桑は旧式艦で(厳密に言えばこの時、戦艦から練習艦に艦種変更されています。これは退役寸前ということなんです)、栗田艦隊の速度について行けないことと、米軍の攻撃を分散させようという考えから、西村艦隊はスリガオ海峡ルートを進むことになったのです。 出港していく栗田艦隊を(栗田艦隊の抜錨は8時頃、西村艦隊の抜錨は15時頃でした)、西村艦隊の将兵が手をふって見送りました。そしてこれが大和や長門にとって、僚艦山城、扶桑との永遠の別れになりました。 出撃の翌23日早朝、栗田艦隊はパラワン島西のパラワン峡水道にさしかかりました。ここは潜水艦の待ち伏せがある可能性が高いと考えられていたところです。栗田長官は対潜警戒を厳しくするよう命じましたが、はたして米潜水艦デース、ダーダーの襲撃を受けました。 栗田提督の座乗する旗艦である重巡洋艦愛宕、摩耶が雷撃を受け沈没し、重巡洋艦高雄も大破して、戦線離脱することになりました(高雄の護衛に駆逐艦2隻が同行して艦隊から分離しました。高雄は25日に無事ブルネイにたどり着いています)。警戒を厳しくしていたのに一方的な襲撃を受けたというのは、日本側の対潜警戒能力がいかに低かったかの現れでしょう。本格的な戦闘になる前に、早くも貴重な重巡洋艦3隻を失ったのです。 乗艦を失った栗田は戦艦大和に司令部を移しました。このため第一戦隊を指揮する宇垣纏中将の司令部と同居することになりました。 1つの艦に2つの司令部が同居し、さらに栗田艦隊司令部の幕僚、司令部付通信士官たちが、他の艦に分散してバラバラになってしまったことが、後々通信トラブルと混乱(暗号の解読も、上級司令部と下級司令部では扱いや対応が異なります)を引き起こし、作戦に大きな支障を出すことになってしまいます。 さて、米潜水艦の襲撃の際、武蔵は無事でした。大型戦艦で収容スペースに余裕にあった武蔵は、沈没した摩耶の乗員769名を受け入れています。 彼らは武蔵から見ればお客さん扱いですが、後の戦闘で武蔵の乗員共々奮戦することになります。 一方、潜水艦デースから、「戦艦3隻を含む日本艦隊発見」の報告を聞いた米第3艦隊(司令官は猛将として有名なウィリアム・ハルゼー大将)では、日本艦隊の目的を把握しかねていました(レイテ島への増援部隊輸送の護衛なのか、米空母機動部隊への艦隊決戦なのか、それとも空母部隊の接近を隠すための陽動なのか、判断しかねていました。レイテ島の輸送船団攻撃ではと言い当てたのは、ウィリアム・ライリー海兵少将だけでした)。 日本艦隊の作戦目標は不明だったものの、どのような事態でも対応できるよう、ハルゼーは、隷下の空母群(17隻ある空母を4~5隻ずつ、4つの集団に分けて運用していました)の内、パイロットの疲労と消耗の激しかった2個集団を補給と休養のため後退を命じていましたが、その内1集団への後退命令を撤回して、3個集団12隻の航空母艦をレイテ島の東側に展開させて、偵察を強化し待ちかまえることになりました。 しかしこの時、レイテ島でマッカーサー元帥率いる陸軍部隊の護衛と上陸支援をしていた米第7艦隊(司令官はトーマス・C・キンケイド中将。護衛空母18隻が基幹)に、ハルゼーは連絡を取ろうとしませんでした。 この事がシブヤン海海戦(10月24日)の翌日の戦闘、サマール沖海戦(10月25日)を引き起こし、アメリカ軍を大混乱することになります。・・・今回は武蔵の話なので、そこまで触れませんけど。 24日、栗田艦隊はシブヤン海に入りました。いよいよ両軍の戦いが始まります。 ・・・今回も武蔵出番がほとんどありませんでした(多汗)。でも次回からようやく本格的な武蔵メインの話に入りたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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