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カテゴリ:プラモデル・艦艇
・・・前2回が前振りという話のキレの悪さです(汗)。 さて、今回からようやく武蔵の話本題です。ちゃっちゃと進めようと思います。 昭和19(1944)年10月24日早朝、シブヤン海に入った栗田艦隊は、米軍偵察機に発見されました。 この時栗田艦隊の編成は、第1遊撃隊第1部隊(戦艦大和、武蔵、長門等)と第2部隊(戦艦金剛、榛名等)の2つの輪形陣に別れて、東に進んでいました。 偵察機の報告を聞くや、ブル・ハルゼー(猛牛ハルゼーの意味)の異名を持つウィリアム・ハルゼー大将(アメリカ第3艦隊司令官)は、「攻撃! 繰り返す、攻撃! 幸運を祈る!」と、12隻の空母群に積極攻撃を命じました。 10時30分頃、第一次攻撃隊(空母イントレピッド、カボット隊)45機が栗田艦隊上空に飛来し、攻撃が開始されました。 この時、大和と長門は主砲で三式弾(対空焼夷弾)を米軍機に発射していますが、武蔵は艦長の猪口敏平少将が射撃許可を出さず(砲術長から要請はあったものの許可しませんでした)、主砲は発射していません。 なぜ猪口艦長が主砲を撃たせなかったのか、高角砲(航空機攻撃用の速射砲)と副砲だけで対応可能と考えたのか、あるいは武蔵は大和と比べてむき出しの機銃座が多かったため(一応爆風よけはついていますが)、主砲発射の爆風で甲板員たちに負傷者が続出するのを恐れていたのか(事実、後の戦闘で主砲発射した時、負傷者がでています)ハッキリした理由は不明です。 しかしこの対応の差は、武蔵の運命を分ける原因になりました。 米軍機は空を焦がす勢いの三式弾の爆発に驚き(もっともすぐに、「当たらなければ花火と同じ」と驚かなくなりますが。三式弾は対空兵器として威力はありましたが、日本海軍はアメリカ海軍と違い、レーダー射撃システムをもっておらず、光学照準(人間がターゲットスコープ(照準機)をのぞき、クロスゲージ(十字目盛り)が一致した場所をヒットポイント(命中点)として計測する方法)では、素早い飛行機の動きについていけず、命中率は低かったのです)、三式弾を撃ってこなかった大型艦、武蔵に攻撃が集中してきたからです。 さらに武蔵は大和の半分の12門の高角砲しか持っていないため、高速で迫ってくる米軍機の接近を阻止できませんでした(機銃は近距離用兵器のため、カバー範囲が狭く中距離では役に立ちません)。 武蔵の第1砲塔天蓋に500ポンド爆弾(日本側の大きさだと250kg爆弾に相当)1発が命中(ただし爆弾は天蓋ではじかれて主砲は無事でした)、右舷中央部に魚雷1発が命中し、これが運悪く非装甲部だったため浸水し、罐室が漏水しました。幸い機関兵たちの処置が早かったため大きな被害にはなりませんでしたが、浸水により傾斜した艦を立て直すため、左舷側に注水したため、速度が26ノットと若干低下しました(武蔵の最高速度は27.4ノット)。 しかしこの時最も手痛い被害は、艦橋上部にある方位盤照準装置が故障したことです(本来なら、主砲の爆撃にも耐えられる構造なので、魚雷1発で故障するとは考えられないのですが、故障の原因は不明です)。 これにより、武蔵の主砲管制、対空射撃の精度は大きく低下しました。 12時6分、第2次攻撃隊(空母イントレピッド隊)33機が来襲しました。 第2次攻撃隊も、武蔵に攻撃が集中しました。これは武蔵の位置が、輪形陣のやや後方にいて、大和より狙いやすかったのが原因と思われますが、第1次、第2次と攻撃が集中したことから、「武蔵だけ色を塗り替えたから目立ったからだ」「武蔵は被害担当艦だった」という話が広まることになってしまいます(ちなみに米軍側の記録には、武蔵の色に関しての言及は一切ありません)。
武蔵は奮戦しましたが、米軍機全ての攻撃を阻止するには不十分でした。今回も左舷に魚雷3発、爆弾2発を艦種と艦中央部被弾、至近弾5発を受けています。 この時、艦中央部に当たった500ポンド爆弾は、甲板を貫通して中甲板兵員室で爆発し、爆風が通気口を伝わって機械室の1つに流れ込んで使用不能となりました。そのため武蔵は最大22ノットまで低下してしまい、徐々に他の艦から遅れ出しました。 また第1砲塔の中央砲(3連ある砲身の中央)で三式弾が暴発する事故が起きました。このため第1砲塔は使用不能となりました。 さらに米軍機の機銃掃射や至近弾の破片(至近弾はその名の通り、艦の近くに砲弾や爆弾が落ちることですが、命中しなくても破片が飛んできて甲板にいる乗員に死傷者がでたり、通信ケーブルが切断されるといった被害が出ることがあります。また小型の艦の場合は、艦の外板がデコボコになったり、穴が空いて浸水することもあります。至近弾は以外に厄介なのです)で、高角砲や機銃座を操作する兵士たちに多数死傷者が来たことも、大きな痛手でした。 艦乗員に余剰人員はいません。死傷者が出ればその分、生き残った兵士たちに負担がかかることになりますから、蓄積されれば軽視し得ないダメージになるのです(もっともこの時の武蔵は、沈没した重巡洋艦摩耶の乗員が乗っていましたので、彼らが助っ人で戦闘の手助けをしてくれました)。 13時30分頃、第3次攻撃隊(空母レキシントンII隊)34機が来襲しました。 この頃、栗田艦隊の上空に、日本戦闘機の援護がいないことを完全に把握した米軍戦闘機は、傍若無人に日本艦隊に襲いかかり、機銃座に機銃掃射を加え、ロケット弾を撃ちこんで制圧して、航続の爆撃機や雷撃機のための突破口をつくりました。 この空襲では、米軍機の攻撃は、第二輪形陣の戦艦金剛、榛名の方に攻撃が集中したこともあり、武蔵は一息つくことが出来ました。もっともほんの少しの間だけでしたが・・・・。 14時20分頃、第4次攻撃隊(空母エセックス隊)54機が来襲し、再び武蔵は集中攻撃を受けました。 この空襲で武蔵は、新たに魚雷8本、爆弾8発、至近弾2発を受けました。度重なる被弾で艦内は大量浸水し、防水区画は満杯状態となって艦首は海面すれすれまで沈み、速度も16ノットまで低下しました。 もはや武蔵は、艦隊の速度についていくことが出来ず、輪形陣から脱落しました。これ以上の戦闘も無理な状態でした。 脱落した武蔵を心配した栗田長官と鈴木義尾中将(第二部隊第三戦隊司令官)の配慮で、重巡洋艦利根と駆逐艦清霜が護衛に付き添いました。 14時53分、武蔵からの報告を受けた栗田も、これ以上の戦闘は無理と判断し、「武蔵は清霜を附し要すればコロン島経由、馬公へ向かえ」と、戦線離脱を命じました。 しかし脱出するまもなく、第5次攻撃隊(空母エンタープライズ、フランクリン、イントレピッド、カポット隊)108機もの大編隊が迫ってきました。武蔵はとうとう致命傷を負うことになります。
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