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カテゴリ:プラモデル・艦艇
今回は、後日談について書きたいと思います。まずは死闘を演じた駆逐艦神風と潜水艦ホークビル、艦のその後についてです。 神風は、昭和20(1945)年10月5日、日本本土に帰還した後、戦地から日本軍将兵や、在留邦人を日本本土へ帰国させる復員業務に従事しました。 復員業務が一段落した折には、イギリスか中国(中華民国)に、賠償艦として引き渡される運命が待っていたかも知れません。しかし彼女の命は突然最後を迎えることになります。 昭和21(1946)年6月7日、3日前に静岡県の御前崎沖で座礁して動けなくなっていた海防艦国後(海防艦は、沿岸・領海警備から、対潜哨戒、船団護衛までこなす護衛艦です。艦は旧式の戦艦、巡洋艦から、駆逐艦より小さい艦など雑多にありました)の救助に向かった神風ですが、彼女もそこで座礁してしまいます。 2隻とも救出不可能と判断され、放棄されました(幸いにも2隻とも、座礁事故による死者は出ていません)。 座礁した神風の解体が完了したのは翌年10月31日のことです。彼女は日本の海を終焉の地に選んだのでした。 一方の潜水艦ホークビルは、戦争終結の翌年1946(昭和21)年9月30日に予備艦となり、退役しました。 艦はまだ十分使用に耐えられるものでしたが、戦争が終わったため、早くもお払い箱になってしまったのです。 しかし解体される前に引き取り手が現れました。アメリカ海軍はソ連など東側諸国海軍を封じ込めのため、同盟国海軍へ潜水艦を貸与することにしたのです(日本もガトー級潜水艦ミンゴを貸与され、「くろしお」と命名して、昭和45(1970)年まで使用しました)。1952(昭和27)年、ホークビルはオランダ海軍に貸与され、「ゼーレーヴ(オランダ語で、アシカという意味です)」という名で再就役し、1970年まで軍務を務めたあと、解体処分されました。 何となく淋しい終わり方の気もしますが、人も物も寿命があるのでしょうね。
そしてここからが本題、この神風の話を書くにあたって、最も書きたかった逸話に触れたいと思います。 戦争終結後、神風艦長春日均中佐(終戦時に中佐に昇進)は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の公職追放令(軍人や、占領地の行政官・官吏が、政府や民間企業の公職に就くことを禁じられました)により職を失ったため、夫人の実家が経営する広島県呉市の材木商の手伝いをすることになりました。 海軍から材木商ですから、慣れない仕事で苦労も多かったでしょうが、愚痴1つこぼすこともなかったと、ご息女は回想しています。 やがて数年の時が流れ、朝鮮戦争、そして日本の再軍備となり、海上自衛隊が創設されました。神風の元乗員の多くが海上自衛隊に入りました。 春日も、神風水雷長だった伊藤治義元少佐などから、「艦長、一緒に海に戻りましょう」と、誘いを受けましたが、彼は笑って謝絶しました。 実はこの時、戦後の苦しい生活を支えてくれていた夫人が重度のリューマチで倒れ、半身不随になっていたのです。身動きの出来ない妻を放って、海に出る考えは彼にはなかったのです。 こうして陸(おか)に残る決意をした春日の元に、昭和28(1953)年11月、アメリカから1通の手紙が届きました。 差出人の名前は、アメリカ合衆国海軍大佐F・ワース・スキャンランド・ジュニア、あのホークビルの艦長からでした。 「親愛なる春日中佐殿 と始まる手紙は、軍人らしい率直さと誠実さに満ちた、非常に礼を尽くしたものでした。 スキャンランドは、ホークビルから見た戦闘の内容を詳細に書き、春日をこう称賛しています。 「貴艦には引き続き48時間以内に、最低5隻以上の潜水艦から魚雷攻撃がおこなわれたはずですが、貴艦に対する攻撃は1つも成功しておりません。 そして手紙に終わりに、スキャンランドは春日に神風の戦闘詳報を送って欲しいと要望しています。その点についても、 「私のこの願いが面倒なことであり、また不愉快なことであろう事は存じておりますが、私が興味を持っている点は、純粋に技術的なことであり、悲しむべき日々のことを掘り起こすつもりは全くないことをお約束申し上げます」 と、思いやりにあふれた文面に、春日は、胸の奥が熱くなり、深い安堵を覚えたと語っています。 「たとえ敵とはいえ、戦闘で人が死ぬのは悲しいことですからね。てっきりあの潜水艦は、マレー沖に今なお沈んでいると思っていたのですが、無事だと知って本当に嬉しかったです。よかった、よかったと、つくづく思いましたよ」 こうして2人の手紙のやり取りが始まりました。 春日がどんな手紙を送ったのかは、彼自身は何も言っていませんが(書いた方が「自分はこう書きました」とは言いませんからね)、スキャンランドからの「あなたに称賛されることは、他の誰からよりも誇りに思う」という返事から、察することは出来そうです。 2人はお互い会うことを希望しましたが、夫人の介護がある春日は呉を離れられず、軍務のあるスキャンランドは呉を訪れる機会を得られず、残念ながらその願いは最後までかなうことはありませんでした。 動けない春日の代理を請け負ったのが、海上自衛隊に入隊していた伊藤治義元水雷長でした。 昭和39(1964)年7月、護衛艦「ゆうぐれ」の艦長だった伊藤二佐は、訓練航海でサンフランシスコを訪れた際、メアアイランド基地(潜水艦基地)を訪問しています。 伊藤は、春日から贈呈の神風の油絵を、スキャンランドに送ってもらうよう基地司令のF.B.スミス大佐に頼みに行ったのです。スキャンランドはこの年退役したため、手紙が届かなくなってしまったのです(それまでは軍の方に送れば手紙は届いたため、春日は彼の住所を知らなかったのです)。 スミスは喜んで快諾し、伊藤を引き留めて、神風の事、対潜水艦戦の技術などを、実に2時間以上語り合っています。 そこで伊藤は、思いがけないことをスミスから聞かされています。 「伊藤艦長、映画「The Enemy Below(邦題「眼下の敵」)」をご覧になったことがありますか?」 「ええ、拝見しました」 スミスはニヤッとして、「(最初の)戦闘シーンは、神風とホークビルの戦闘を元にしたんですよ」と答えました。さらに、米海軍では神風の操艦を、貴重な戦訓として教本に載せていることなどを、伊藤に説明しました。 また渡米中、伊藤が神風の元水雷長である事を知った米海軍軍人から、「神風は700ヤード(約630メートル)の距離から魚雷を回避した。当たらなかったのが不思議でならない。どんな手を使ったんだい」と、よく声をかけられたそうです。 日本では神風の名前は忘れ去られているのに、かつての敵国アメリカでの思いがけない高評価に、伊藤も、彼からいきさつを聞いた春日もかなり驚いたようです。 「あなたの古き敵であり、新しい友より」 後日、油絵を受け取ったスキャンランドから、春日に届けられた謝礼の手紙の中にある言葉です。 絵の礼に、スキャンランドは自分が退役した時の写真と、リビングに神風の絵を飾った前で、家族と撮った写真を同封して送ってきたのです。そして、 「日本が戦争の灰の中から立ち上がり、偉大な世界の力に再びなったことは、あなた方の非常に誇りとなるでしょう。私は再び世界に大戦争がおきない事を熱心に祈っていますが、空しい希望になることを恐れています。もし再びそう言うことになったら、我々は今度は同じ側に立ちましょう(「味方同士でいましょう」という意味)。お幸せに!」 と、いかにもアメリカ人らしい言い回しで結んでいます。 「昨日の敵は今日の友」という言葉がありますが、まさに2人はそれを地でいく関係でした。 春日は37年に及ぶ夫人の看護生活の後、平成7(1995)年、肺炎で84年の生涯を閉じました。前述のとおり、スキャンランドとは対面する機会は最後までありませんでした。 もしかしたら、今は天国で2人、酒を酌み交わしながら、互いの勇戦をたたえあっているかもしれません。 それを想像しつつ、話を終えたいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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