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カテゴリ:プラモデル・艦艇
色々あって続きが遅くなってしまいました(汗)。なるべく平常運転に戻れればいいなと思います。 アメリカ艦隊は、忍び寄ってくる駆逐艦綾波に、全く気がついていませんでした。ちょうど綾波の背後にあるサボ島が、レーダー波を乱してしまい、レーダースコープに写らなかったのです。 夜襲を長年研究して、見張り員の目を鍛え、夜間索敵能力を向上させていた日本海軍とは異なり、米海軍の見張り員の夜間索敵能力は低く(とはいっても、素人よりは上ですが)、レーダーが役に立たない状況で、遅れを取ってしまったのです。 綾波は30ノットに増速し、米艦隊の接近しながら、位置を測的していました。 慌てた米艦隊が星弾(照明弾)を発射した時、作間は「撃ち方始め!」と命令を下しました。 綾波最初の砲撃は、隊列3番目にいた駆逐艦プレストンに向けられ、初弾から命中する快挙でした(当時の砲撃は、人間の目で測定する光学測定のため、5千メートル位の距離なら、命中するまで10発ぐらい試射する必要があります。距離が遠くなれば試射する弾の数は増え、3万メートルを超えた距離を撃ち合う戦艦同士の場合は、3発命中させるには100発の試射が必要とされています)。 あっという間に火だるまになったプレストンは、隊列から脱落していきました。約2時間後、航行不能になったいたところを、軽巡長良、駆逐艦五月雨、電の攻撃を受けて沈没することになります。 次いで綾波は、隊列先頭の駆逐艦ウォークに照準を移し、こちらも初弾から命中弾を与えました。同艦も火災が発生し、隊列を維持できずに脱落していきました。 この頃になると、綾波の位置をつかんだ米艦隊からの砲火が集中し出しました。元々1対6(しかも戦艦2隻を含む)戦力差がありますから、奇襲のショックから立ち直ってしまうと、今度は綾波が袋だたきにあう番になったのです。 「最初の被弾は、艦橋前方の応急員が待機している兵員室でした。これは右舷側から弾が飛び込んできましてね。舷側に直径1メートル程の穴が空いていました。 続いて第1煙突に1発命中し、この時の破片が艦橋左舷に積んであった内火艇のガソリンタンクに当たってしまってボンボン燃えだしたんです。油が下に垂れて、艦橋の下が火の海になっちゃった。これでこっちは敵に丸見えになったわけです。それでますます被弾しました」 この1弾は綾波にとって致命傷でした。砲弾の破片によって、煙突のすぐ後ろにある第1魚雷発射管が、故障して動かなくなってしまったのです。 発射管内には魚雷が装填されたままで、艦軸線をむいていました(つまり艦の前方に向けられていて、海の方に向いていませんでした)。そこへ艦橋下で発生した火災が広がり、火が魚雷発射管の3本の魚雷を炙り出したのです。 火は手がつけられない状態で、魚雷発射管を動かすことが出来ず、海に魚雷を投棄することも無理なため、爆発は時間の問題となりました。 もし3本の魚雷が誘爆すれば、小さい駆逐艦はひとたまりもなく吹き飛んでしまいます。作間は綾波の沈没は免れない事を覚悟しました。 「2番、3番(魚雷発射管)、魚雷発射!」 作間は動作可能な、後ろの魚雷発射管の発射を命じました。6本の魚雷が、一応敵艦のいる方に向けて発射されましたが、狙って撃ったわけではなく、第1魚雷発射管の魚雷が誘爆した際の、被害を小さくするための投棄でした。 一方、綾波の死に物狂いの砲火は、隊列4番目の米駆逐艦グウィンを捉えました。2発の直撃弾を受けた同艦は、機関室が損傷したため速度が出なくなり、脱落していきました。 さらに戦艦サウスダコタにも1発、綾波の主砲弾が命中したようで、電気系統に故障が生じて一時的に砲撃不能になっています(30センチ以上ある戦艦の装甲を、12.7センチ砲の駆逐艦の「豆鉄砲」で撃ち抜くことは無理です。サウスダコタからの砲撃が無くなったため、作間は「重巡1隻を撃破したと判断した」と回想しています。しかしアメリカ側の記録では、「電気系統に故障した」とあり、砲弾が命中したのかは正確には不明です。駆逐艦の主砲ですから、外見は無傷だったのかもしれません)。 数分後、米艦隊で大爆発が起きました。目見当で発射された魚雷が米駆逐艦2隻に命中したのです。 「突然、グォーンと大音響が轟いて、暗闇の中に真っ黒な煙の塊がボコッと吹き出しあがりました。水雷長が「当たった、当たった」と大喜びでね。艦上では「万歳! 万歳!」の大歓声でした」 まず弾火薬庫に魚雷が命中したウォークは、艦が真っ二つに折れて轟沈していきました。同艦は海中で爆雷が起爆してしまい(いつ敵潜水艦に攻撃されても対応できるよう、安全装置を全て外していたからです。軍紀違反でしたが、多くの艦が似たような事をしていました)、海に投げ出された乗員の多くが、爆発に巻き込まれて犠牲になってしまいました。 次に艦首に魚雷が命中したベンハムは、艦首が粉砕されて航行不能になりました。乗員たちの必死の復旧作業でこの時は沈没を免れましたが、翌日エスピリッツサントへ帰投途中、再び破口が開いてしまい、結局沈没しました。 米艦隊の損害は甚大でした。ウォークが沈没、プレストンとベンハムが大破、航行不能となり、グウィンも被弾して戦線を離脱していました。ウィルス・A・リー少将は4隻の駆逐艦を連れてきていましたが、その全てを綾波1隻に仕留められてしまったのです。 怒り心頭のリーは、帰投後、不甲斐ない戦闘をした駆逐艦隊司令を、直ちに更迭してしまいました。 綾波の被害も甚大でした。 後部2番砲塔に敵弾が命中して砲撃不能となり、さらに機関室と操舵室も被弾したため、艦は航行不能となって漂流しはじめました。魚雷がいつ誘爆するか分からない以上、これが限界でした。作間艦長は総員退去を命じました。 艦長の退艦命令に乗員たちは、次々に海に飛び込みはじめました。その際水の浮くものは何でも放り投げ入れられました。 1つだけ無事のカッター(カッターボート。人員や軽貨物の行き来に使うため搭載された小型のボートです。海軍用語では「短艇」といいます)に、作間は負傷者をそれに乗せるように命じました。ここで彼はもう一つ命令を下しました。 「爆雷に安全装置をつけて投棄せよ!」 もちろん作間は、米駆逐艦ウォークの悲劇を知るよしもありません。綾波の後部甲板に積んである爆雷が起爆し、乗員を殺傷する危険に気がついたのです。安全装置をきちんとつけていれば、爆雷は爆発しません。大急ぎでそう指示したのです。そんな細かい配慮が功を奏して、脱出した乗員たちに、溺死者や誘爆に巻き込まれて死亡した乗員は一人も出ずに済みました。 艦喪失となりましたが、敵艦2隻を撃沈した(と、この時艦長以下乗員は思っていました。実際は2隻撃沈、1隻大破、1隻中波の計4隻撃沈破でした)綾波乗員たちの士気は高く、漂流中、皆元気に軍歌を歌っていたといわれています。 この頃、ようやく味方艦駆逐艦浦波が駆けつけてきて、生存者の救助がはじまりました。 そして最後の生存者がすくい上げられた直後、とうとう魚雷が誘爆し、綾波は沈んでいきました。 戦闘中の戦死者32名、負傷が元で後に死亡した者10名で合計42名が戦死しましたが、乗員の8割弱が生還し、激戦をかいくぐった割には戦死者が少なくすんでいます(比率が逆になっていても不思議ではありません)。 理由は弾火薬庫に被弾せず、大爆発が起きなかった事と、命中した砲弾は全て喫水線の上だったので、大浸水しなかったためです。 こうして、綾波の戦いは終わりました。 一方、その後の第3次ソロモン海戦は、戦艦霧島を失い、日本側の敗北で終わりました。綾波の奮戦に比べて、米戦艦ワシントンの不意打ちを受け、あっさりと霧島を失った司令官の近藤信竹中将の稚拙な指揮ぶりは、現在でも酷評されています。 一方アメリカ海軍は、護衛の駆逐艦全てを失いながらも、怯まず奮戦したリー少将の指揮ぶりが勇名を馳せました。さらに、レーダー射撃の有効性が実証されたことは、アメリカ側に大きな自信をつけました。 それまで夜の海戦は、血のにじむような夜間戦闘訓練を積んだ日本海軍の独壇場で、アメリカ軍は敗北続きだったのです。レーダーによって米海軍は、日本艦艇との夜間戦闘を恐れなくなったのです。 第3次ソロモン海戦は、ガダルカナル島を巡る戦いのターニングポイントになりました。 ガ島の制空権と制海権は完全に米軍のものとなり、日本軍は大規模な増援部隊も補給物資も送ることも不可能になりました。そして昭和18(1943)年2月、ガダルカナル島を放棄することになったのです。 綾波艦長作間英邇中佐はその後、昭和17(1942)年12月部下たちと帰国し、駆逐艦玉波、冬月艦長を歴任した後、大佐に昇進して第43駆逐隊司令となって、無事終戦を向かえています。綾波以降は特に武勲をたてることはありませんでしたが、1人も部下を死なせることなく、自身も一度も負傷することなく、強運な艦長として名を残しています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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