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カテゴリ:旅行・史跡など
操舵室です。こちらは凄くきれいでした。 7.6センチ単装砲です。隣の学校を砲撃・・・することは出来ませんのであしからず(笑)。 長官寝室です。 この部屋に東郷元帥が寝起きしていました。椅子もベッドも凄く小さいです。当時の日本人は小さかったんですね。 小さくて見にくいと思いますが、下の机の写真は、海軍正装姿と和装の東郷元帥写真です。 士官室です。 海軍は陸軍より階級の待遇の差が顕著で、調度品などは豪華です。 三笠の保存に尽力したチェスター・ニミッツ元帥(太平洋戦争時の米太平洋艦隊司令長官)などの業績を書いた看板です。 黄海海戦、日本海海戦の武勲艦である三笠ですが、海戦後の彼女は不運でした。 日露戦争終結後の1905年9月11日、後部弾薬庫の爆発事故(原因は諸説あって不明です)により佐世保軍港内で爆沈、日露戦争の凱旋式には出られませんでした(爆沈事故の死者は339名。日本海海戦での三笠の死傷者が113名でしたから、海戦より爆沈事故の犠牲者の方が多かったことになります)。 その後浮揚されて復帰しますが、シベリア出兵の際ウラジオストク沖で座礁事故を起こし(1921年)、また関東大震災(1923年)の際は地震で被災して損傷、着底して、結局軍艦籍を除籍されます。 ワシントン軍縮条約(別名「海軍休日」条約)によって廃艦になる予定でしたが、国民から愛された三笠は保存運動が起きて、軍艦として復帰できない状態での保存が決まりました(現在三笠は、陸上で船体下部をコンクリートと砂利で埋め立てられており、もはや船ではありません)。 そして太平洋戦争の敗戦により、三笠はソ連(現ロシア)からの圧力で解体されそうになり、それは何とか免れたものの、米軍も三笠の処遇には無関心で、当初は船体を利用してキャバレーや水族館が作られるなど、惨い扱いを受けることになります。 しかしそれを知ったニミッツ元帥(彼は日露戦争で活躍した東郷元帥を、生涯尊敬していました)が激怒し(恐らくニミッツの逆鱗に触れたのは、敬愛する東郷提督の旗艦三笠に、彼を揶揄した「キャバレー・トーゴー」なる店を進駐軍が開いたからのようです)、娯楽施設はすべて撤去され(この後米兵の不法行為がないよう、海兵隊の歩哨を立たせる厳重な警備ぶりだったようです)、どさくさに紛れて米軍が撤去した資材も回収して、日本側に返還しました(ただし誰が持ち去ったか不明なものは、元に戻せませんでしたが)。 その後もニミッツは三笠の保存と復元に尽力し、1961年に現在の形で復元が完了しました。 見学が終わり三笠を降りました。 本当はもっと写真を撮っていたのですがブログに載せられるようなはいい写真はのが撮れませんでした(主にコスプレの方々が写ってしまっていて・・・)。人が多いのと、痛車にコスプレイヤーが多くて、非常に疲れました(汗)。 最後に三笠の写真を撮りました。非常に見にくいですが、マストを見るとZ旗が揚がっています。 海が隣のため、我が同胞鳶殿がいました。人が餌を出すとさっとかっさらっていきます。 見学を終えてると、とっとと横須賀を去りました。 本当はお土産なども見ようと思ったのですが、そちらもコスプレの方々が一杯いまして、何か見る気力が無くなってしまいました(苦笑)。 帰りは京急の横須賀中央駅から横浜に戻り、そこで別の友人と合流して、夕飯を食べて帰ることにしました。 電車の中で「コスプレが多かったねぇ」と話していると、その原因を電車の広告で初めて知りました。 なんでもヨコカル祭なるイベントがおこなわれていたようです。 file:///C:/Users/allmilitary/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/LGY7YQSO/2016yokocal.pdf そうか、それでコスプレが多かったのか。納得できた一方で、そのイベントの日にピンポイントで三笠行くことになった偶然に脱力しました・・・。 次回行く時は、イベントの有無を確認してから行きたいと思います(苦笑)。 それではまた。
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