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2017.01.25
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カテゴリ:プラモデル・艦艇

ビスマルクと.JPG

※今回趣向を変えて、プラモの話なのに、プラモの写真を少なめにして、実際の写真を入れてみることにしました。

ビスマルクの出撃は、最初から躓きを見せました。
ドイツ海軍の当初の計画では、1941(昭和16)年初頭に、ビスマルクの姉妹艦テルピッツと共に2隻で出撃し、北極海の冬の長い夜を利用して、イギリス海軍の警戒網をすり抜けて大西洋に進出して、イギリスの海上交通網を破壊しようという計画でした。
ビスマルク型戦艦2隻が大西洋を暴れ回っていたら、イギリスの海上交通網は寸断され、大きなダメージを追わせることが出来るでしょう。
こうしてイギリスを屈服させて講和に持ち込み、後顧の憂い無くソ連と対決する。それが当初の筋書きでした。
しかし、この計画は間もなく変更を余儀なくされました。
1941年1月現在、工事の遅れでテルピッツは未完成
(就役は1941年2月終わり、艤装と乗員の訓練が一通り終わったのは、6月になってからでした)で、ビスマルクの方も乗員の訓練をしている最中で、とても出撃できる状態でなかったのです。
陸軍国であるドイツは、予算と資源の大部分は陸軍が優先され、次いで空軍で、海軍は一番後回しでした。
またヒトラー総統をはじめ、政府・国防軍トップの大半は、海に無理解でしたから、ドイツ海軍の艦艇建造は、どんどん遅れていったのです。
そして季節は春となり、日照時間はしだいに長くなっていきました。作戦実施の時期は過ぎてしまいましたが、ドイツ海軍総司令官エーリヒ・レーダー元帥は、作戦実施を強くヒトラーに求めました。
この時、ドイツを取り巻く環境はさらに変化していきました。
いまだにイギリスは屈服していませんでしたが、ドイツはいよいよソ連との戦争準備段階に入っていたのです。
この当時、ドイツとソ連は同盟国でしたが、両者の間に友情というものはありません。あったのは打算と計算だけでした
(ついでに誤算も)
1941年6月22日、ドイツとその同盟軍によるソ連領侵攻作戦「バルバロッサ」により両国の戦争は始まりますが、もしドイツが手を出さなくても、その数ヶ月後から1年後ぐらいのまでの間に、ソ連が逆にドイツに侵攻する計画をたてていた事が、ソ連崩壊後に公開された極秘資料からわかってきています。
前にブログで書いたフィンランドとソ連の冬戦争も、ドイツとの対決前に、バルト海沿岸を自国の勢力圏に組み入れておこうとするソ連の計画の一部でした。とどのつまり、両国とも同じ穴の狢だったのです。
さて、ソ連との戦争に集中したいドイツは、イギリスとこれ以上戦争を続けたくありませんでした。
島国であるイギリスを屈服させるには、そのアキレス腱である海上輸送路を破壊して、国民生活を破綻させてやればいい。そうすれば強情なジョンブルたちも戦争継続を諦める。そう説いて、レーダーは渋るヒトラーに、ライン演習作戦実施を説得しました
(ヒトラーは季節と英海軍との戦力差を考えて、作戦成功に懐疑的でした。結果として、ヒトラーの認識の方が正しいものでした)
レーダーが、このタイミングでライン演習作戦実施にこだわったのは、政治的な事情からでした。
ソ連との戦争は、陸軍と空軍が主体の戦争となるでしょう。その結果、上層部は一層海軍を軽視されることになります。それを阻止したかったのです。
くわえて、ドイツ軍上層部は、ソ連との戦争は半年で片がつくと考えていました。そしてソ連の降伏によってイギリスは抗戦を諦め、世界大戦は終わる予定でした。
そうなると海軍は何もしなくてもいいわけですが、それでは海軍のメンツは丸つぶれです。ドイツの輝かしい勝利に、ドイツ海軍もイギリスを屈服させて一役買ったという、名誉ある功績を残すことを、レーダーは望んでいたのです。こうして数ヶ月遅れの1941年5月、ライン演習作戦の実施が決定しました。
ライン演習作戦を実施する艦隊司令官には、ギュンター・リュッチェンス中将が就任し、出撃できないテルピッツの代わりに、重巡洋艦プリンツ・オイゲンがビスマルクに同行することになりました。

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↑大佐時代のリュッチェンス提督です(写真はウィキペティアより引用いたしました)。 

リュッチェンスは映画「ビスマルク号を撃沈せよ」では、ヒトラーの信奉者で高圧的な小悪党のような人物に描かれていますが、実際には異なります。
実は彼は、カナリス提督を中心とした反ヒトラー地下組織「黒いオーケストラ」の一員でした
(そのことは、ヒトラーもドイツ海軍上層部も気がついていませんでしたが)
もしこの作戦に関わらなければ、第二次世界大戦後期に起きる、ヒトラー暗殺を狙ったクーデター事件にも、積極的に関与していたがもしれません。

リュッチェンスは、出撃に反対していました。
この時完成したばかりのテルピッツは、慣熟訓練中で同行できず、フランス・ブレスト軍港にいる巡洋戦艦シャルンホルストは機関故障、グナイゼナウは英軍機の攻撃で損傷して出撃できなかったため、ビスマルクとオイゲンだけで、作戦目標を達成することは無理と考えていたのです。
しかもイギリス海軍の増強は、ドイツ海軍のそれを遥かに凌駕していました。リュッチェンスから見れば、作戦は現実を無視した無謀なものでした。
さらに実践経験のあるオイゲンはともかく、ビスマルクの乗員の練度が不十分な点も不安の種でした。
事実、ビスマルクの元乗務員たちは、「出撃する前、一度も砲を撃つ訓練はしませんでした」「実戦で初めて引き金を引きました」と証言しています。艦の航行に関しては訓練が終了していたビスマルクですが、攻撃訓練のこれからという段階で、練度は心許なかったのです。
ビスマルクの艦長は、勇敢で沈着冷静、部下からの信望も厚いエルンスト・リンデマン大佐でした。

220px-Bundesarchiv_Bild_101II-MN-1361-21A,_Schlachtschiff_Bismarck,_Kapit?n_Ernst_Lindemann.jpg

↑ビスマルク艦長リンデマン大佐。 部下から愛された艦長でした(写真はウィキペティアより引用いたしました)。

彼もリュッチェンスと同じ不安を抱いていたようで、訓練中のテルピッツは作戦参加できないだろうかと発言しています(彼と同じ要望を、リュッチェンスがすでに上層部に意見具申して、却下されています) 

こうして冬の長い夜の時期は過ぎ去り、太陽が長い時間海を照らす春になったにもかかわらず、ライン演習作戦は実施に移されました。
1941年5月18日、戦艦ビスマルクと重巡洋艦プリンツ・オイゲンはゴーテンハーフェン港(現在のポーランド・グディニャ港)
を出港していきました。
ビスマルクにとって、最初で最後となる実戦の始まりでした。






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Last updated  2017.01.25 23:28:02
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