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カテゴリ:旅行・史跡など
加藤清正公の銅像です。 現在も熊本の方々から尊敬を集める清正公ですが、その肥後統治は波乱に満ちたものでした。 豊臣秀吉の九州平定後、肥後を受領したのは佐々成政でした。 しかし彼は肥後の国人衆をまとめきれませんでした。もともと肥後の国人衆は自立傾向が強かったところに、新領主の成政が領内統制を強権的に進めたため(これはすでに大陸出兵を視野に入れていた秀吉が、重要な後方策源地になる肥後を、早期にまとめ上げるよう指示していたとも言われています)、国人衆は不満を爆発させて、肥後国人一揆が起きました。 一揆は成政の力だけで対処できず、隣国諸大名の救援を得て鎮圧され、佐々成政は改易の上切腹させられ、一揆側も有力国人衆52名の内48名が戦死、もしくは処刑される過酷な処罰の上で(秀吉は一揆を起こした国人衆のみならず、中立の立場を取った国人衆も容赦なく処断しました。中には助命すると確約した者も後日約束反故にして、幼子に至るまで残忍に処刑したと言われています)、天正15(1587)年、肥後の北半国25万石を加藤清正に、南半国20万石は小西行長に与えました。 一揆で荒廃した所領を与えられた清正は、領内の立て直しを図りますが、まもなく始まった豊臣秀吉の朝鮮出兵により、領内再建は中断を余儀なくされます。 加藤家は約1万もの軍役を課せられ、これは領民に重い負担となりました。 さらに朝鮮での戦争の長期化にともない、軍勢を維持するため、領内からさらなる兵員と物資の徴発を行ったため、朝鮮出兵時期の清正は、領民から怨嗟の声が強く上がっていたと言われています。 清正が名君と言われるようになるのは、関ヶ原の合戦が終わり、肥後一国52万石を所領にしてから後のことです。 清正は本格的な領内再建に乗り出し、農民へ夫役(労働による労役)を停止し、農閑期に賃金を支払って公共事業を行って、治水や干拓を行い農業生産力を向上させると、それを他領に販売して(肥後で生産された小麦は、なんとフィリピンのスペイン人(当時フィリピンはスペインの植民地になっていました)にまで販売しています)財政を確保し、それを元手にさらなる公共事業、農業生産力の向上を進める政策を進めます。 このあたり、他の領主の多くは、農民への夫役を免除したり、年貢の減税をする程度の負担減しかしなかったのに対して、さすがはバブルの申し子秀吉の子飼いだけあって、清正はかなり重商主義的な才覚があったようです。 一連の政策で、肥後国人一揆と朝鮮出兵で荒廃していた肥後の国力は回復し、領民たちから一転して慕われ、名君としてあがめられるようになっていきました。 ちなみに、もとは「隈本」だった熊本を、「熊本」に改名したのも清正です(「「熊」の方が強そうだろ」と笑って言ったという逸話も伝わっています)。 熊本城の案内図です。 残念ながら、昨年の地震で立ち入り禁止になっているところも多く、案内図の通りに回ることは出来ません。 食事処とおみやげ屋さんのある区画の先にある石垣です。崩落している所が多々あります。 未申櫓(ひつじさるやぐら)です。名前の由来は、天守閣より南西の方角(つまり未申の方角)にあることから名付けられた櫓です。 一見すると、大きな被害がないように見えますが、 側面の石垣は崩れてしまっています。 本丸への道は、石垣に建物の崩れが酷くて閉鎖中です。 遠回りしながら、天守閣に向かいます。 壕のところから撮った天守閣です。左から宇土櫓、小天守、大天守です。 ここから見ると、大丈夫そうに見えるんですよね・・・。 壕の脇にある石垣、塀はこの通りです。 戌亥櫓(いぬいやぐら)です。未申櫓と同様、名前の由来は、天守閣より北西(戌亥の方角)にあるためです。 この櫓も、側面を見るとこの通りです。 戌亥櫓下の石垣、基礎は完全に崩壊しており、隅石がかろうじて建物を支えているのが伺えます。 戌亥櫓付近から撮った天守閣です。 このあたりからまでは、比較的きれいに写真が撮れます。 崩れた石垣を保管している場所です(二の丸の一角)。 番号が振られており(岩のところで赤い印のようなものがかすかに見えると思います)、どの部分の石垣かが分かるようにしてあります。 熊本城の修復は、元からあった石垣や資材を可能な限り使い、破損などにより再利用できないところは新規作成して復元する方針と聞いています。 本丸方向から戌亥櫓を撮ってみました。こうしてみると、北西側のダメージが大きいことが見て取れますねぇ。 (続きます)
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