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カテゴリ:歴史
ブログで熊本城のところが終わったこともありまして、もう少し熊本城について掘り下げて見てみたいと思います。 熊本城は加藤清正が築いた城です。築城は天正19(1591)年に開始され、一応の完成を見たのは9年後の慶長5(1600)年の頃です。 この頃起きたのが関ヶ原の戦いで、東軍側(徳川方)に着いた清正は、小西行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを開城、調略して、九州における西軍陣営の平定に尽力し、戦後の論功行賞で52万石もの大大名となりました。 歴史の教科書では、この後「徳川幕府の成立・・・」とあっさり進みますが、関ヶ原の戦いによって時勢は決しはしたものの、この時点で混乱が一気に収束したわけではありません。 九州では、薩摩の島津氏が未だ徳川氏に抵抗する姿勢を見せており、国境沿いの軍備を固めていましたし、清正が新たに所領とした肥後南半分は西軍の小西行長の元所領であり、加藤氏への反抗の目がくすぶっていました。 結局島津氏の帰順により、九州に大きな戦乱の兆候は無くなりましたが、最後まで徳川氏に敵対姿勢を貫き通した島津氏が、潜在的に徳川幕府の敵対者であることは変わりなく、また西軍についた大名の多い九州は、徳川幕府にとって警戒地域でもありました。 徳川氏の最有力与力大名である加藤氏は(慶長9(1609)年に清正の娘八十姫と家康の息子徳川頼宣(初代紀州藩主)が婚約して、双方の父親の死んだ8年後に無事に結婚したので、加藤氏は豊臣恩顧の大名でありながら、徳川氏の準親藩扱いになります)、軍事的には対島津戦を想定した領内整備を行い、また九州に変事があればそれを平定し、また徳川氏の大軍の渡海の際は、城内に迎え入れる必要があるため、熊本城の拡張と整備は、清正の死後も続けられました。 しかし皮肉にも、その努力が加藤氏の改易の原因の一つになってしまう結果になりました。 すでに清正時代の熊本城ですら、52万国の大名の居城としては、あまりに大きすぎました(おおよその面積は約98万㎡でした。徳川将軍家が400万石で、江戸城は230万㎡でしたから、それと比較しても、熊本城が加藤氏にとって、分不相応な大きさだったことが察せられます)。 城の維持に多額の費用がかかった上に、さらなる拡張を続けた結果、加藤氏は財政難に陥っていきます。 さらに二代藩主加藤忠広は、父清正ほどのカリスマ性を発揮できず(まぁ、それも仕方ないと言えますが・・・)、武断的な家臣団を統制できず、結局財政破綻と家中掌握に失敗した加藤氏は、幕府から期待された役割を果たせないと判断され、見放されてしまったのです(ドラマや小説では、忠広が駿河大納言事件(三代将軍徳川家光の同母弟徳川忠長が改易され切腹させられた事件)に連座したと書かれることが多いですね。忠広と忠長の中が良好だったのは確かなようですが、それが原因かは不明です)。 加藤氏改易後の熊本には、やはり徳川家の準親藩・譜代扱いの細川忠利(豊前国39万9千石)が54万石に加増・転封され、以降は細川氏の居城として、熊本城は明治維新を迎えることになります。 明治維新後、西欧化の流れの中は熊本城にも押し寄せてきました。 現代人も見惚れる熊本城の美しさも、当時は時代錯誤の遺物として否定的に考えられていました。城の解体の話も出たほどです。 しかし明治4(1871)年、鎮西鎮台(後に熊本鎮台に改名)が設置されると、熊本城は陸軍の駐屯地となりました。 同年の廃藩置県により熊本藩が無くなると、新たに誕生した熊本県庁は二の丸に置かれ、維新後も熊本城が、政治・軍事の中枢であり続けました。 もっとも、熊本城は江戸時代と変わらなかったわけではなく、熊本鎮台司令官だった桐野利秋によって、老朽化が著しい櫓や、石垣の破却が行われています。そのため現在も残っている熊本城は、天守閣を中心とする本丸部分を中心とするエリアだけになりました。 そして築城から約280年を経て、熊本城は生まれて初めて、そして現在まで唯一の戦火に巻き込まれることになります。それは明治10(1877)年に起きた西南戦争でした。 江戸時代初期に造られた城が、19世紀後半の近代兵器とどう戦ったのか、次から書いてみたいと思います。
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