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カテゴリ:歴史
↑yahooの地図をもとに、熊本城部分(赤線の中)、主な地名などを入れてみました。自作のため、少々変なところがありますが(特に左端の段山の位置と大きさが異なりました・多汗) 、その点は差し引いてごらんいただければ幸いです。 ここでは西南戦争全般の話には触れず、熊本城を中心にした話になるべく専念致します。 したがって、西南戦争の起きた原因や、そもそも西郷隆盛下野の原因になった明治6年の政変や、征韓論などには触れません。 熊本城を取り巻く環境が急速に悪化してきたのは、明治9(1876)年の事です。 この年、明治政府は廃刀令(帯刀の禁止)と秩禄処分(俸禄の支給停止)を決定しました。これは武士の長年の特権を奪い、経済的にも困窮させる政策であったため、西国の士族たちは不満を爆発させました。 彼らは倒幕に貢献したにもかかわらず、その力を利用されるだけ利用して捨てられた形になったからです。 最初の火の手は熊本であがりました。 明治9年10月24日深夜、神風連の乱が発生し、熊本鎮台司令官種田政明少将が殺害され(自宅で愛妾の小勝と就寝中に襲撃され、首を刎ねられました。かろうじて脱出した小勝は、東京の両親に「ダンナワイケナイ ワタシハテキズ」と電報を打ちました。これが神風連の乱を告げる第一報になりました。さらに余談ですが、小勝はその後も熊本県に傷の療養のために残留し、西南戦争中は熊本城に籠城して、炊事方などで働いたといわれています)、城内に侵入して鎮台将兵を多数殺傷しました。 乱は翌日、鎮台兵を掌握した児玉源太郎少佐(日露戦争時の満州軍総参謀長)らの反撃で1日で鎮圧されましたが、熊本鎮台の受けたダメージは大きいものでした。 神風連は種田少将を始め、鎮台の将校宅を中心に襲撃したため、歩兵将校の1/4、砲兵将校の1/2が死傷してしまい、大幅に戦闘能力が低下しました。 また鎮台兵の士気も大きく低下していました。農民などから徴兵された集まりである鎮台兵は、士族と異なり戦闘に慣れておらず、不意打ちで襲われて、大勢の戦友が死傷したのを見て、怯えきってしまったのです。 この頃の鎮台兵の様子について、熊本鎮台の参謀長だった樺山資紀中佐は、夜歩哨に立った兵が、犬の声の怯えて発砲したり、薩摩士族からだけでなく、神風連でとった不覚を、熊本市民からも蔑まれて「くそちん(糞鎮)」と囃し立てられ、いっそう士気が低下したと回想しています。 殺害された種田少将に後任に、11月9日、谷干城少将が再任しました。 谷は別段戦上手な人という訳ではありません。そのため陸軍内部では、野戦攻城の才があると定評があった野津鎮雄少将を押す声もあったと言いますが(野津を押したのは、西郷隆盛の従弟である大山巌少将でした)、山縣有朋陸軍卿は却下しました。 山縣は谷に才走ったところはないものの、忍耐強く堅実で、守城の才があると見ていたようです。そしてその分析は正しいものでした。 世情不安定な中、熊本入りした谷は、新しい将校の補充と鎮台兵の士気の回復に尽力している最中、鹿児島で変事がおきました。 明治10(1877)年1月29日、政府が鹿児島の陸軍省砲兵属廠にあった武器弾薬を、大阪へ極秘裏に移送しようとしたのに気づいた私学校(西郷隆盛が創設した学校で、彼の意図は、将来日本の有為になる人材を育成することにありました。あと意外に知られていないのは、私学校創設の資金の4割近くは大久保利通が出しています。このことは、西郷と大久保の関係が良好だったことと、私学校創設の目的が政府を打倒するような、過激な目的でなかったことが伺えます)の生徒たちが激怒して襲撃して、武器弾薬を奪いました。 反乱を防止しように武器を取り上げようとしたことが、逆に反乱に火をつけてしまったのです。 さらに翌1月30日、西郷隆盛暗殺計画が発覚しました。 当時鹿児島には、次第に過激化が進む私学校の内定調査のため、中原尚雄以下24名の警察官が派遣されていましたが、彼らを訝しんだ私学校の生徒たちが中原らを捕らえました。 過酷な拷問の末に中原が「西郷を"しさつ"するために来た」と証言したことから(有名な話ですから、ご存知の方も多いと思います。「しさつ」と言う言葉には、「刺殺」「視察」の二通りが考えられます。私学校の生徒らは「刺殺」と捉えましたが、後年中原は、「視察」の意味だったと証言しています)、政府に対して怒りを爆発させました。 ここに日本最後の内戦、西南戦争は勃発しました。 鹿児島の変事を知った熊本鎮台は、直ちに戦闘準備が始まりました。2月14日、小倉(熊本鎮台の分営があり、歩兵第十四連隊がいました)から乃木希典少佐(連隊長心得)も招集された上で、軍議が開かれました。 鹿児島から西郷軍(薩軍)が、熊本に向かって進軍を開始するのは、2月15日のことですから、それに対応する鎮台側の反応の方が早いものでした。 その中で、谷は籠城の方針を示しました。 薩軍は西郷暗殺事件の真相について、「政府に詰問の議あり」を大義名分にして東京行きを表明していましたが、薩軍は海軍を持たないため(小さい汽船が3隻あっただけでした)、海軍の艦艇や船舶の錨泊する長崎を押さえて渡海手段を確保し、それから東進することを大まかな目標としました。となれば、必然的に熊本は通り道になります。事ここに至れば、熊本が戦場になることは避けられないのです。 そしてこの時点で、1万を超える大軍が集まりつつある薩軍に対して、熊本には2千あまりの鎮台兵しかいない状況では(当時の熊本鎮台は、大きく二つの歩兵連隊を持っていましたが、歩兵第十四連隊は小倉と福岡に駐屯し、熊本にいたのは第十三連隊だけでした)、薩肥国境で薩軍を迎撃して鹿児島に押し込める積極策はとれないと、谷は冷静に判断していたのです。 参謀長の樺山中佐は籠城に批判的でしたが、司令官の方針は、他の幕僚たちに大筋で同意を得ました。 この14日から営外に居住する将校と下士官に、熊本城内での宿泊が命じられました(兵舎にずっと住まなくてはならないのは兵士たちで、将校・下士官になると、兵舎の外に住むことが許されました。そのため将校や下士官の多くは駐屯地の外で家庭を持って、毎日駐留地に通勤していました)。 城内宿泊の指示を受けて、軍人や官吏の妻子なども、熊本城内に続々と避難してくるようになりました。城内は戦闘準備の一方で、これら難民たちの衣食住の問題にも取り組む必要が出てきました。 この時避難してきた中に、第十三連隊連隊長与倉知実中佐の妻鶴子もいました。彼女は聡明な女性で、神風連の時は彼女の機転で夫は難を逃れました。そんなこともあって彼は愛妻家で、臨月の妻が遠くに避難するのは難しい、ならばと熊本城に避難させたのです。 将兵が熊本城に常駐する一方、市内にある武器弾薬の城内貯蔵と、陣地構築も開始されました。 熊本城は、平時から戦時体制へと、移行していきました。
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