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2017.05.16
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カテゴリ:歴史

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熊本城の面積は約98万㎡と言われています。

残念ながらこれだけ巨大な城を、約2千名の鎮台兵(熊本城に籠城した正確な人数は不明です。民間人も相当いたためです。軍人数は約3千5百名といわれていますが、これは主計課や軍医、馬丁など、戦闘をしない後方勤務の軍人も含めた数ですので、戦闘要員だけに絞ると、約2千名になると考えられています)で、守備するのは不可能です。

鎮台側は、熊本城の重点防衛エリアを、千葉城付近、下馬橋付近、古城付近、藤崎台付近、埋門付近の5か所にして(上の画像と合わせてごらんいただければ幸いです)、陣地構築と兵力配備に力を注ぎました。

2月19日、最初の援軍が熊本城に到着しました。小倉から進発してきた歩兵第十四連隊の一部、左半大隊331名が入城したのです。

当時の小倉から熊本までの時間的な距離は、馬を使って約2日です。

歩きで完全装備(約30kgの装備)を背負っての行軍となれば、準備時間を含めてその数倍の日程を要します。にもかかわらずこれほど早く到着したのは、連隊長心得の乃木希典少佐の判断と手腕が良かったからです。彼は14日の軍議に出るため13日に小倉を発つ際、部隊に熊本城行きをあらかじめ命じていたのです。

乃木はこの時点で、谷少将が籠城策をとるであろう事、そして熊本城は兵力が不足であることを見越していたのです。

司馬遼太郎氏の小説では、無能な軍人のように酷評される乃木ですが(理由は不明ですが、司馬氏は乃木希典が大嫌いだったようです。乃木の記述に関しては、悪意ある歪曲が多く、小説内で触れられている引用資料も、平気で改ざんしています。私は司馬作品は好きですが、この部分に関しては、司馬氏を批判的に考えています)、実際の彼は水準以上の能力を持った優秀な軍人でした。

ちなみに乃木一生の不覚となる軍旗を薩軍に奪われた経緯も、少数の部隊で夜間進軍中、薩軍の大軍と不意の遭遇戦となり乱戦となった事が原因でした。

危険を感じた彼は、自らしんがりをつとめ、軍旗小隊を先に後退させたのですが、軍旗を保持していた河原林雄太少尉が戦死して、奪われてしまったのです(この辺も司馬氏の本だと、河原林にしんがりをさせて、乃木はさっさと後退してしまったと、正反対の内容になっています)

軍旗喪失に乃木はショックを受けながらも、西南戦争の天王山となった高瀬の戦い(2月24~26日)では、政府軍の前衛部隊を率いて善戦して、薩軍の突破を許さず、勝利に貢献しました(この戦いに敗れた薩軍は、政府軍を消耗戦に引きずり込むべく、有名な田原坂の戦いへと突き進んでいくことになります)

話を元に戻します。左半大隊に続き、東京警視隊400名も熊本城入りしました。

当時、軍人より警察官の方が強かった時代です(権力、戦闘技能双方において)。というのも、警察官の多くは士族出身者で、戦闘技能に長けていたのに対して(元新撰組の斎藤一(藤田五郎と改名)等が、警察官になっていたのは有名ですね)、軍人は農民出身者が多く、徴兵令施行から日が浅くてまだ訓練不足で、戦闘技量が心許なく、戊辰戦争での実戦経験豊かな警視隊の到着は、鎮台司令部を喜ばせました。

そんな19日午前11時10分頃、事件が起きました(公的な記録では11時40分ごろ出火とあり、正確な火災時刻は不明です)

火の気のない熊本城本丸から出火し、折からの強風に煽られ、瞬く間に天守閣を包み込みました。

「加藤清正公造築以来綿々として西国の名城と称する城、今日一距に火をもって灰燼に帰す。加藤社の神慮如何ぞや」

と、涙を流してその光景を記録に残したのは吉田如雪という人物です(彼の家系は、歴代熊本藩主嗣子の教育係を務めていました)。天守閣炎上が、熊本人にとってどれほど衝撃的であったかが察せられます。

火災は宇土櫓と重要文化財の12基の櫓を除き、本丸すべてを焼き尽くしました。
またこの時熊本市内でも火災が発生して市街地の大半を焼け野原にしていますが、これは熊本城の火災が強風に煽られて、市街地に拡大したからといわれています
(熊本鎮台部隊が、射界を得るために焼き払った説もあります)

火災の原因ですが、現在も不明です(公式記録上は「失火」と書かれているのみです)

考えられる説は大きく3つあります。

・単なる偶然の失火
・鎮台側が自ら火をつけた
・薩軍に協力する者による放火

です。

現在、一番有力だと言われているのは、鎮台側が自ら火にかけたとする説(天守閣は、築城された慶長年間とは異なり、防御施設としての価値は無く、むしろ敵の砲撃の標的になって危険でした)ですが、この説には弱点があります。
この時本丸周辺は弾薬が山積みにされており、引火したら、天守閣を処分するだけにとどまらず、熊本城自体を吹き飛ばす大災害になった可能性があったことです
(武器弾薬に引火しなかった理由は、炎上した天守閣が、偶然弾薬の置いてあった外側ではなく、内側に崩れるように焼け落ちたためで、また火災現場近くをたまたま巡回していた児玉源太郎少佐が、危険を顧みず、必死に弾薬を移送指揮をとって避難させたためでした。熊本市のパンフレットなどでは、「児玉が鎮台兵に戦の覚悟をさせるために火をつけた」説を取り上げているようです)
その点が自焼説ではうまく説明できないのです。

薩軍のスパイ、もしくは協力者による放火説は、失火時、谷司令官と樺山参謀長が、城内巡察のため本丸に居ないタイミングで出火し、その後給仕人の一人が姿をくらませて行方不明になっていることから、その人物が薩軍協力者だったのではというものです。

ただしその人物の本名や行動がその後不明のため、可能性のひとつと言われる程度のようです(戦闘が怖くて逃亡した可能性もあります)

 

こうして天守閣を焼失した熊本城では、深刻な問題が発生しました。

本丸には、1カ月は籠城を支えられるであろう兵糧(米と粟500石)や薪炭が貯蔵されていたといわれていますが、それらの搬出は間に合わなかったのです。

いくら武器弾薬があっても、食料がなければ籠城戦など出来ません。慌てた鎮台側は、城下や近隣の農村に軍吏を派遣して、戦後弁済することを約束した書付と引き替えに、米や粟、味噌、酒、醤油、薪炭を徴発しました。

この結果、米と粟だけでも600石が集まったといわれています。集まった量に鎮台首脳部は安堵し、将兵たちも「俗に言う焼け太りとはこのことか」と諧謔的に捉えられたと言われています。このことが籠城戦を戦える士気の回復に繋がりました。

・・・さて、ここまでは小説などでわりと知られた話なので、最後に最新の歴史学の調査結果について触れたいと思います。

平成19(2007)年に、熊本築城400周年記念に発掘調査が行われましたが、その際、天守閣跡から出るはずの焼米(焼けた米の残留物)が全く出土しませんでした(焼け跡の上に新たに土を盛っているので、本来なら一粒であっても出てくるはずなのです)

そのため、出火のミステリーに加えて、本当に天守閣に兵糧米が貯蔵されていたのかという疑問が、新たに登場することになりました。






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Last updated  2018.11.23 22:37:53
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