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2017.05.19
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カテゴリ:歴史

DSCF9198.JPG

↑は、熊本鎮台司令部の置かれた宇土櫓です。 

熊本城天守閣がまだ健在だった19日午前、二つの知らせが熊本城に到着しました。

ひとつは東京からの電報で、薩軍に対する討伐令でした。

これにより、政府の命令前に戦闘準備を進めていた熊本鎮台は、正式に「官軍」として、薩軍と戦闘を行う正当性を得ました。

もう一つの知らせは、鹿児島からやってきました。

鹿児島県庁から派遣されてきた使者が、「(西郷大将が)その台下通過の節は、兵隊整列指揮を受けられるべく」と記された通告文を伝達してきたのです(余談ですが、使者の到着はこの日ですが、通告文自体は前日に届けられており、鎮台側は内容を理解して上で、使者と対面しています)

通告文は、「熊本鎮台将兵は、西郷大将を無礼のないよう整列して出迎えよ。そしてその指揮に従え」という趣旨です。

この高圧的な通告文は、西郷隆盛の名で出されていましたが、書面の内容に、西郷は関わっていません(この文面を書いたのは、血気にはやる猛将の桐野利秋が書いたともいう説があります。西郷隆盛の意図した通告文は、東京に向かう際、熊本鎮台など政府側と戦闘などの事態にならないように、あらかじめ通行することを知らせておいてほしいと、鹿児島県令大山綱良に依頼していたものでしたが、文面は西郷の意図とは正反対の、過激きわまりないものとなっていました)

後日、文章の内容を知った西郷は、これでは相手を挑発して、完全に戦争になってしまうと仰天して、通告文の取り消しを要請しましたが、一足遅く間にあわず、熊本城に届けられてしまったのです。

正使に面会したのは、熊本鎮台のナンバー2、参謀長の樺山資紀中佐でした。

これは今も交渉ごとのセオリーですが、最高責任者(ここでは熊本鎮台司令官谷干城少将)はこういう場に、最初に顔を出すことはありません。

なぜならそこでの反応一つで、自体が決定的になってしまうからです。したがってワンクッション置くのです。

よく「首相(ここは「大統領」とか、「社長」とかに置き換えることも可能です)が直接出れば・・・」という言い方をする人がいますが、もし、トップが出てきている状況で交渉が決裂すれば、国の場合国交断絶や戦争など、不測の事態に一気に進行してしまうことが多々あるのです。

世の中には、いきなりナンバー1の直接交渉で話がまとまる場合もありますが、その大部分はあらかじめ根回しが済んでいて、公式に発表するだけになっている場合が多いのです。

そういった交渉ごとのセオリーを無視すると、交渉事はまとまならなくなり、事態が悪化してしまうことになりかねないのです。

話を元に戻します。

鹿児島からの使者に対面した樺山は、厳しい表情で「国法の断じて許容せぬ所」と断じ、「如何に西郷大将であっても、非職の一私人が、大兵を引率して、鎮台下を通過することは、断じて成り申さぬ」と返答しました。

樺山は薩摩士族であり、西郷隆盛と親交にある人物でした(西郷は、「(自分の挙兵に)樺山は味方してくれるだろう」と発言していました)。樺山本人も、軍人として薩軍迎撃任務に忠実に力を入れる一方で、尊敬する西郷隆盛の生命が損なわれることなく、平和的に事態が解決することを望んでいました。

それ故にこの通告文は、彼にとって強い失望を与えるものでした。これではとうてい挙兵の大義名分にはならない、正当化出来ないと、樺山は心の中で西郷隆盛と決別したのです。

後日、この時の心境を樺山は、「残念サと云うものは、死ぬまで忘れることは出来ぬ」と嘆息しています。

樺山の返答は、熊本鎮台からの事実上の宣戦布告でした。西郷が軍を解散して、個人として東京行きを希望しない限り、熊本鎮台は薩軍と戦闘を辞さないことを表明したのです。

2月20日、鹿児島を進発(2月15日)した薩軍の先発隊が、川尻に達しました。熊本城まで指呼の間でした。

この時、再び樺山中佐が積極策を進言しました。川尻の薩軍は、ほとんど無警戒で野営準備をしていました。一戦してこれを叩くことは、鎮台兵の士気を高めるためにも意義があると見ていたのです。

しかし司令官谷干城の返答は否でした。
谷は「熊本の存亡は、天下人心の繋がる所にして、全局勝敗の岐るる所なり」と答えています。

つまり、もし熊本城が落城もしくは放棄撤退に至ることになれば、反乱は日本全国の不平士族に波及するかもしれない。従って、熊本城を堅守することが今最も重要なことである。

もし初戦で勝利することが出来れば、確かに敵の戦意をくじき、味方が有利に展開することになるだろうが、逆に破れることになれば、兵士たちの士気は低下し、熊本城防衛に支障を来してしまう。

また、もし鎮台兵が大挙して出撃したあと、薩軍に通じた熊本士族が蜂起したらどうなるか(半年前に神風連の乱を経験したばかりで、熊本士族の動向を、谷は非常に警戒していました。事実、西南戦争で薩軍に参加した熊本士族は1500名にのぼり、最も薩軍に協力的な地域でした)、熊本城は落城し、鎮台兵は挟撃されて壊滅することになりかねない。今、リスクの高い攻勢を取るべきではない。

と、断じたのです。

それでも積極策を諦められない樺山は(彼は薩摩士族に相応しく、前へ前への性格です)、どうにか谷を説得して、二個中隊を抽出して川尻夜襲を承認させました。

21日午前1持、夜襲部隊を率いて川尻に到着した樺山ですが、農民出身の鎮台兵の脆さを痛感することになります。

鎮台兵の攻撃を薩軍は全く警戒しておらず、歩哨すらろくに立てていない有様を見て、樺山は夜襲成功を確信しましたが、部隊が戦闘配置につく前に、薩軍兵士を見て動揺した鎮台兵が発砲したため、計画は露見し、一転して退却を余儀なくされます(樺山は後日、「司令官の籠城策は正しかった」と恥じています)

この西南戦争初戦は、双方に死傷者が出ずに終了しましたが、薩軍に捕らえられた鎮台兵がいたため、熊本鎮台が戦闘準備を整えていることを、初めて薩軍は知りました(驚くべき話ですが、先日の通告文拒絶を聞かされていたにもかかわらず、薩軍首脳部は、熊本鎮台は戦わずして降伏すると思って、戦闘になるとは考えていなかったと言われています)

この時川尻に進出していた薩軍の指揮官たち(別府晋介(連合大隊大隊長)、桐野利秋(四番大隊大隊長)、村田新八(二番大隊大隊長)の3人)は、「若かず、断然戦闘に決して、鉄火を以て、東上の志を達せん」と決しました。

21日午前7時頃、薩軍は先日の火災で焼け野原になった熊本市内に突入し、これを発見した千葉城及び竹の丸の鎮台兵が応戦しました。

同日午後1時20分、熊本の通信局は、「唯今戦争はじめ候」と、開戦を告げる第一報を東京に打電しました。

ここに50余日に及ぶ、熊本城攻防戦は切って落とされました。






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Last updated  2018.11.23 22:43:47
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