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2017.05.22
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カテゴリ:歴史

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↑参考までに、薩軍の総攻撃時のおおよその攻撃配置です。 自作のため、少々変なところは御見逃しのほどを。

2月17日に鹿児島を発った西郷隆盛が川尻に到着したのは、熊本鎮台兵と薩軍が交戦した21日夜半のことです。

この時初めて彼は、熊本鎮台と戦闘が始まっていることを知り、ただちに軍議を開きました。

前回のブログでも触れましたが、薩軍首脳部で熊本城攻略に関する方針が話し合われたのは、この時が初めてでした。薩軍は、熊本鎮台と戦闘になる可能性を、全く考慮していなかったのです。

軍議では、薩軍内随一の知将である篠原国幹(一番大隊大隊長)が、熊本城攻略を主張しました。熊本城を放置することは、薩軍と本拠地鹿児島の連絡線を遮断される事になり、放置するのは危険とみていました。

加えて熊本城を攻略すれば、明治政府に不満を持つ全国の士族たちに、政府への反乱の絶好の狼煙となり、その権力基盤を大きく揺るがすことが出来ます。さらに熊本城の武器を接収出来れば、装備が著しく劣る薩軍にとって、大きな戦力強化にも繋がることも大きな利点です。

「全軍力を一にして、四面合撃一挙して城を屠る」

熊本城攻略に方針を決定した薩軍ですが、じつは具体的な攻撃計画は、全く決まっていませんでした。そのことは、熊本協力隊の池辺吉十郎別府晋介(連合大隊大隊長)に、熊本城攻略の方略を聞かれた際の、返答にもよく現れています。

熊本城攻略の方法について問われた別府は、「我行路を遮らば、只一蹴して過ぎんのみ。別に方略無し(我々の邪魔をするなら、蹴散らして通るだけだ。他に考えることなどない)」と答えました。
対して池辺は「剽悍にして無謀なる
(勇敢だけど、何も考えていない)」と閉口しました。別府の言は勇ましいですが、熊本城攻略の方策について、何一つ具体的な策は示されていません。それは薩軍全体の考え方を象徴していました。

池辺は今回の西郷隆盛の挙兵を、政府の様々な政策の矛盾や問題点を改善する切っ掛けに出来ると考えて、薩軍に協力しましたが、熊本城への対応ひとつとっても、薩軍首脳部が何も考えていない様子を見て、事を誤ったと強く失望したのです。それでも彼を含む熊本協力隊は、薩摩士族外の最大協力勢力として、薩軍と共に九州各地を転戦することになります。

この時川尻周辺に集結していた薩軍兵力は約8500名しか到着しておらず(薩軍の総兵力は約1万3千名)、進軍は大幅に遅れていました。というのも、明治10年の鹿児島は、50年ぶりの大雪に見舞われていて、通行に難渋していたのです。

さらにこの時致命的だったのは、砲兵がまだ到着していなかった事でした(22日朝時点で、八代で足止めされていました)。にもかかわらず、22日早朝から、熊本城総攻撃が決定しました。

なぜ砲兵の到着を待たずに、歩兵の強襲のみによる熊本城攻略が決定したのか、その理由は不明です。
薩摩士族たちは、農民出身の鎮台兵を侮っていたからとよく言われています。それは恐らく事実であったとでしょう。それがこの熊本城攻略という大事にも、判断を迷わせたのでしょうか。

少なくとも言えることは、この稚拙な開戦が、薩軍に可能性のあった熊本城攻略の機会を、永遠に失わせる結果になったと言うことでした。

薩軍の熊本城総攻撃は、22日午前6時に始まりました。

正面軍、桐野利秋の四番大隊と池上四郎の五番大隊の計2500名が、熊本城南東側、千葉城、厩橋方面から攻撃し、背面軍、篠原国幹の一番大隊、村田新八の二番大隊、別府晋介の連合大隊計3千名が、熊本城の西北側、段山、新堀方面から攻撃を開始しました。

歩兵の強襲のみの無謀な攻撃でありましたが、薩軍の兵力配置と攻撃地点は、熊本城の弱点を的確に突くものでした。これは桐野利秋が元熊本鎮台司令官で、熊本城の弱点を熟知していたからだと思われます。

しかしやはり砲火力を持たない薩軍の攻撃は、各所で鎮台側に苦戦を強いられました。厩橋方面から突撃した正面軍は、千葉城、下馬橋からの砲撃により敗退しました。

正面軍は、千葉城と厩橋の同時攻略を諦め、熊本城東側に突出した形にある千葉城に攻撃の重点を置き、一部は北に回って埋門方面から突入を図りましたが、鎮台側の激しい銃砲火に晒され、結局城内に突入はおろか、取り付くことも出来ず撤退しました。

しかしこの時、攻撃の中核は背面軍の方でした。というのも、熊本城の構造的な弱点は、この西北側にあったからです。

段山(だにやまと呼びます)と呼ばれる丘がありますが、ここは近接する熊本城藤崎台と尾根伝いに続いた台地で、熊本城内を瞰制(かんせい。周囲を完全に見渡せる高所。この地点を敵に確保されてしまうと、行動の自由を奪われてしまうので、絶対確保が求められます。瞰制地形に対する対応策は、旧日本軍にアメリカ軍、専守防衛の自衛隊を問わず、世界中の軍隊も共通して、「いかなる犠牲を払っても、瞰制地形は確保、もしくは奪取すべし」と教本に書かれています。なぜなら瞰制地形を敵の手に放置し続けることはリスクが大きく、味方の犠牲も多くなるからです)出来る要衝でした。

伝説では、熊本城を築城した加藤清正は、熊本城を、段山まで囲った形での築城を考慮していたと云われていますが、予算不足のため泣く泣く断念したといわれています。

谷干城少将も段山の重要性は熟知していました。

そこで熊本城内から外れた段山には、左半大隊を配備し、対岸の藤崎台には、第十三連隊第三大隊(この大隊は、神風連の襲撃を受けなかった部隊で、熊本在住の部隊で唯一士気が低下していない隊でした)を配備し、それを参謀長の樺山中佐と、連隊長の与倉知実中佐が陣頭指揮を執る重厚ぶりでした。

しかし薩軍、篠原国幹の一番大隊に早々に取り付かれた段山(これは熊本城外のため、効果的な砲兵支援が受けられなかったためでした)から、左半大隊は追い落とされました。

銃撃戦では薩軍と互角以上に戦える鎮台兵でしたが、白兵戦に持ち込まれると、あっさりと突き崩されてしまったのです。

薩軍は段山から藤崎台へと猛攻を加え、両軍は激しい銃火を交えました。この日の段山・藤崎台方面の戦闘が如何に激しかったかを物語るのは、藤崎台の二人の指揮官が死傷(樺山中佐は負傷し、与倉中佐は戦死しました)したことからも伺えます。

夫、与倉知実が致命傷を負ったこの日(死亡したのは翌朝)与倉静子夫人は熊本城内で無事に女の子を出産しました。谷少将は「もし母子に何かあったら、(戦死した与倉中佐に)申し訳が立たぬ」と、箝口令を敷いて、夫人の体調が安定するまで、夫の死を知らさせないようにしました。

静子夫人が夫の死を知ったのは、三週間後のことで、谷少将が自ら夫人に伝えたといわれています。 






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Last updated  2019.03.27 18:49:38
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