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2017.05.24
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カテゴリ:歴史

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段山を占領した薩軍は、ここを拠点にして、城内に激しい攻撃を加え、藤崎台の鎮台側は大損害を受けました。

熊本鎮台の工兵は弾雨の中、必死に陣地の修復を行い、谷少将は薩軍正面軍の撤退で僅かながら余力の出来た東側の陣地から兵と大砲を引き抜き、藤崎台へ投入しました。

鎮台側の援軍、特に砲火力に圧倒された薩軍は、藤崎台の陣地を突破できずに、日没の時間を迎えました。

もし薩軍が、砲兵の到着を待って熊本城総攻撃を行っていたとしたら、占領した段山に大砲を据えつけ、城内を砲撃出来たはずです(少なくとも私なら、そう言う作戦をとったと思います)

そうすれば藤崎台の陣地は陥落し、熊本城は一日で落城という事になっていたかもしれません。結局、砲兵を持たぬまま無謀な攻撃を行った薩軍は、城郭一つとれずに後退を余儀なくされたのです。

薩軍の砲兵隊が到着したのは、22日夜半のことです。薩軍は約1万3千の全軍の陣容が整いました。

薩軍砲兵は、すぐに花岡山と日向崎に砲列を敷き、熊本城内へ砲撃を開始しました。

しかし夜間で、着弾観測も出来ない状況下、最大射程ギリギリの距離からの砲撃で、さらに攻城戦に不向きな小口径の大砲(薩軍の元に、攻城戦向きの十二斤野砲、二十拇臼砲が到着したのは、24日の事です)という様々な悪条件が重なっていたため、薩軍の砲撃は、熊本城内にかろうじて着弾する程度で、この日の鎮台側は、大きな被害を受けることなく終わりました。

翌23日、薩軍は砲兵の支援の元、再び総攻撃を仕掛けました。

薩軍は攻撃目標を藤崎台ではなく、古城方面に集中させました。というのも、段山と藤崎台の間は、鎮台工兵が築いた胸壁陣地(胸の高さまで掘った塹壕陣地。立ったまま銃の射撃がしやすく、移動も容易な利点があります)があり、その突破が容易でないため、藤崎台と古城の間にある法華坂から熊本城突入を図ろうとしたのです。

法華坂は、緩斜面で登りやすく、ここを突破出来ればわずか1分で城内には入れます

一見すると攻めやすい法華坂ですが、問題は坂の両脇にありました。切り立った崖のような斜面があり、そこに城兵が陣地を構築していた場合、法華坂は十字砲火の火点になってしまうことです。事実、22日の戦闘では、薩軍別府晋介の連合大隊がここから攻撃しましたが、鎮台兵の銃砲火の前に敗退しました。

今回は、段山の射撃戦で鎮台側の主力を拘束しつつ、薩軍砲兵の支援射撃で藤崎台と古城の鎮台陣地を封殺し、強行突破しようとしたのです。

しかし薩軍の砲撃は、鎮台兵を苦しめたものの、薩軍歩兵の攻撃は撃退されました。

この時、薩軍は全く気がついていませんでしたが、鎮台兵の技量と士気は飛躍的に上昇していました。鎮台兵は白兵戦になれば、薩軍に圧倒されましたが、銃撃戦、砲撃戦は、互角以上の戦いが出来ることを、戦友の屍と自らの汗血の上に学び取ったのです。

ほんの2日前、薩兵の姿を見て動揺し、無闇に発砲するていたらくだった鎮台兵とは、全く別ものになっていたのです。

鎮台兵は薩軍の砲撃を受けてもひるまず反撃し、戦列は崩れませんでした。

特に大活躍したのは鎮台砲兵で、薩軍砲陣地の発砲炎(大砲を発射時に出る炎と煙)から薩軍の大砲位置を特定すると、すぐさま反撃して薩軍の大砲1門を破壊しています。

これに驚いた薩軍は、大砲を破壊されないよう、頻繁に大砲の場所転換をせざるを得ず、効果的な支援砲撃が出来なくなりました。

結局、23日の薩軍の総攻撃も、薩軍の敗退で終わりました。

前述のように、鎮台兵の技量と士気が向上して勇戦したことが大きな原因でしたが、もう一つ、薩軍内部の混乱も、この日の総攻撃が不徹底に終わったことも大きな要因でした。

話は22日夜に遡ります。この日西郷小兵衛(西郷隆盛の末弟。一番大隊一番小隊小隊長)野村忍介(四番大隊三番小隊小隊長)が到着して、東上を主張したことに始まります。

二人は、「熊本城の攻城を続けて、精鋭をいたずらに消耗するのは得策ではない。一部兵力で熊本城を包囲し、主力は北上して、政府軍の援軍を撃破し、小倉、長崎の要衝を押さえれば、九州の制圧できる。そうすれば、熊本城は自然と落城する」と主張したのです。それに対して、篠原国幹(一番大隊大隊長)は、「いったん戦端を開いた以上、兵力の半数を失っても、攻城を続けるべき」と主張して激論になったのです。

篠原がなぜ熊本城攻略をあくまで主張したのかというと、ここで熊本城攻略を中止しては、「薩軍が熊本城に敗退した」という印象を、日本中に与えることを危惧していました。それでは西郷隆盛の挙兵に続くものがいなくなってしまうからです(事実、薩軍が期待した大規模な蜂起は起きませんでした)

両者の議論に、西郷隆盛は沈黙したまま決定を下さず、結局大きく二つの事情から、桐野利秋(四番大隊大隊長)が、西郷小兵衛と野村支持にまわったため、薩軍の方針は転換されることになりました。

ひとつは政府軍の動向が判明したのです。

薩軍が熊本城へ総攻撃をかけた22日、本州から政府軍の援軍第一陣、第一旅団野津鎭雄少将)と第二旅団三好重臣少将)が、福岡に到着した情報が伝わってきたのです。また乃木希典少佐指揮の歩兵第十四連隊も、熊本城北の植木まで進出してきていました。
薩軍の熊本進発、並びに熊本城攻撃が場当たり的だったのに対して、政府軍の反応は迅速で的確でした。

このまま熊本城包囲と力攻めを続行していた場合、北から迫る政府軍に腹背を突かれる可能性があります。それを阻止するため、薩軍は政府軍援軍を早期に撃破する必要に迫られたのです。

もう一つの事情は、熊本城天守閣の炎上により、貯蔵されていた熊本城内の兵糧が底を突きつつあるという情報が、この頃薩軍に伝わったのです。

この時、鎮台側は必死に調達に走って、籠城前の500石を上回る600石の米と粟を貯蔵していたのですが、その部分が抜け落ちて伝わっていたため、薩軍では、「これ以上戦う必要はない。放っておいても数日のうちに熊本城は降伏する」と言う楽観論が生まれたのです。

こうして薩軍は、熊本城包囲、薩軍主力は北上と方針転換されましたが、23日の熊本城総攻撃は、そのまま行われました。

その理由は、急な方針転換が将兵に周知されず、混乱が生じていたとも、どの部隊が北上し、どの隊が残留して熊本城包囲をするかが決まっておらず、その調整に手間取っていたともいわれていますが、よく分かっていません。

このような状況下で行われた総攻撃です。動員された兵力は初日より多く、砲兵の支援も受けられたにもかかわらず、薩軍兵士の士気は今ひとつでした。このことも、熊本城の城郭ひとつ落とすことが出来なかった理由といわれています。

2月24日、薩軍主力は熊本に迫る政府軍の援軍を叩くべく北上を開始し、熊本城包囲は、池上四郎(五番大隊大隊長)を主将に、約4700名と砲数門の部隊が包囲を続行することになりました。

しかしこれで熊本城が安泰になったわけではありません。いまだ薩軍の包囲兵力は、熊本城内の戦闘要員より倍以上多く、独力でこれを排除することは無理でした。

籠城戦はまだ始まったばかりでした。






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Last updated  2018.11.23 22:49:04
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