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カテゴリ:歴史
薩軍の主力は去りましたが、熊本城内の者たちが、枕を高くして眠れるようになったわけではありません。薩軍の占拠する段山からの銃撃は激しく、応戦する鎮台兵との戦闘が毎日続きました。 この頃、熊本城内に脅威となったのは、薩軍の二十拇臼砲による擾乱射撃でした。 臼砲とは曲射砲のひとつで、敵の真上(正確に言えば、45度ぐらいの角度なので、真上ではありませんが)へ砲弾を降らせる種類の大砲です(現在は大型の臼砲は廃れました。系譜上は、迫撃砲が臼砲の子孫といえるかもしれません)。高仰角で発射されるため、野砲の比べて射程距離が大きく、主に攻城戦で使用された大砲でした。 野砲が真横に砲弾を発射するため、発砲炎や煙で、その位置を露呈しやすいのに対して、臼砲は遠距離で高い仰角に向かって砲弾が発射されるので発見されにくく(その代わり、命中精度は野砲より遙かに低いものでした。そのため、移動物や小さい目標を狙うのは苦手で、城などの大きな建造物に対しての攻撃には有効でした)、熊本城内からはその位置が分かりません(薩軍も位置を悟られぬように、頻繁に砲の位置を変えていました)。そのため一方的に砲弾を撃ち込まれることになったのです。 二十拇臼砲の一発が弾薬庫のある飯田丸に落ち、鎮台司令部を震撼させたこともありますが、あらかじめ弾薬庫への被弾を考慮して、飯田丸内に溜水を大量に汲んで置いた桶を各所に用意していたため、炎上する前に火は消し止められました。 一方薩軍の砲は、弾薬庫が爆発しなかったので、別の場所に弾薬庫があると思って砲撃ポイントをずらしたので、結果弾薬庫へ第二の被弾はなく、誘爆は起きずに済みました。 籠城から18日目となる3月10日には、段山から城内に、降伏勧告の矢文が打ち込まれました。 また食料の調達に出て捕まった鎮台兵(米と粟などの主食はともかく、副産物はやや不足しがちだったようです。参謀長の樺山資紀中佐は後日、谷夫人(熊本鎮台司令官谷干城少将の妻満子夫人)が城内の雑草を集めて作ったおひたしが、「苦中の楽」だったと回想しています)の情報などから、薩軍は熊本城内の食糧事情がかなり悪いと考えていたようで、「援軍もなく、食料もなく、よく戦った。降伏しても恥にならない」という趣旨の降伏勧告もおこなわれています。 食料の備蓄量に不安はあったものの、熊本城内の状態は悲観的な空気はなく、これらの降伏勧告が鎮台兵の士気を下げることもなく、むしろ兵の士気が目に見えて衰えていたのは薩軍の方でした。 この頃、熊本城の北では、田原坂の戦いが始まり、泥沼の消耗戦に突入していました。 薩軍は兵力不足に苦しみ、熊本城包囲の薩軍部隊を引き抜いて投入していました(それでも足りず、3月25日、別府晋介らを鹿児島に派遣して、補充兵募集することになりました)。 さらに食糧不足で、すぐに開城すると思っていた熊本城は未だ頑強に抵抗し、包囲する側の兵力が日々引き抜かれて減少する。この状態に、いかに勝ち気な薩摩隼人たちも、自分たちの劣勢を自覚せざるをえなくなっていたのです。 そんな中、熊本城籠城戦最大の戦闘が発生します。 3月12日午後5時頃、東京警視隊の斥候隊が、霧の中段山に偵察を試みました。第一線陣地に接近すると、そこに薩兵の姿はありません(この時、なぜ段山の薩軍部隊が、勝手に陣地を放棄していたのかは不明です。恐らく部隊の交代の際、本来なら交代部隊が到着後に引き継いでから休憩なのに、鎮台兵の反撃はないと油断して、撤退してしまったのが原因ではと言われています。この辺も士気の緩みから生じた失態といえるかもしれません)。 偵察隊はさらに前進したところ、そこで薩軍と遭遇し、激しい戦闘となりました(霧の中、状況が分からず始まった戦闘ですが、両者の距離は、十歩程度の超至近距離での遭遇だったと言われています)。 警視隊は、先刻の段山の第一線陣地に下がり、三方を薩軍に責め立てられた中でも、ひるまず戦い続けました(警視隊の大部分は、士族出身で戊辰戦争経験者だったので戦い馴れしており、ちょっとやそっとで動揺したりはしませんでした)。そして伝令からの報告や、激しい銃声で戦況を知った鎮台側、薩軍双方が援軍を次々に繰り出したため、両軍は乱戦となりました。 この時鎮台兵は、薩軍の吶喊を受けてもひるまず銃火を以て反撃し、さらには銃剣突撃も果敢におこなって、薩兵を驚かせています(銃剣突撃は士気が高い部隊でないと怖気づいてできません。ただし、白兵戦で鎮台兵が薩軍に弱いのは相変わらずでした)。そこには薩軍が開戦前、薩軍が侮った軟弱な鎮台兵の姿はありませんでした。 戦闘は一昼夜にわたって続きました。14日になり、左半大隊の一部が戦場を迂回して、段山を攻める薩軍部隊の後背を突いたことで勝敗は決しました。 薩軍は総崩れとなり、四方池、日向崎方面に敗走して、鎮台側は段山を奪還しました。 薩軍の遺棄した戦死者だけで73名に達し、鎮台側も、鎮台兵40名、警視隊21名の戦死者と、負傷者109名に及ぶ損害を出しました。これは籠城戦中、最大の出血でした。 段山を失ったことにより、薩軍は城内への直接攻撃が不可能となり、嫌がらせ程度の効果しか望めない擾乱砲撃以外で、熊本城に損害を与えることが出来なくなりました。 熊本城攻防戦の流れは、この時大きく変わりました。 この戦いで、薩軍の弱体化と、兵力の減少を察知した鎮台側は、積極的な攻勢に転じ始めました。 3月27日、鎮台側は埋門北にある京町へ攻撃を開始しました。薩軍とは異なり、砲兵の適切な支援砲撃を受けた鎮台側は、激戦の末に京町を占領すると、すぐに工兵隊が野戦陣地を構築し、薩軍の逆襲に備えましたが、薩軍の反応は鈍いものでした。 熊本城を包囲する薩軍の兵力は、この頃籠城側より少なくなっていたのです。鎮台側の攻撃に、兵力的に対応できなくなってなっていたのです。 こうして、熊本城を巡る戦いは、攻守が逆転し戦局は大きく変わりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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