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カテゴリ:歴史
鎮台側が京町に攻撃を仕掛ける前日の3月26日、薩軍は坪井川と井芹川の合流付近に堰を設けて、熊本城を水攻めにする策を実行に移しました。 薩軍の意図は、段山の奪還(3月14日)以降、活発化してきた鎮台側の反撃を、熊本城の周囲を水没させることで阻止しようとしたのです。 北の田原坂の戦いで大きく兵力を消耗していた薩軍は、もはや熊本城を大兵力で包囲する余裕はなくなっていたのです。 この策により、熊本城の東北と西は水没し、薩軍はこれらの地域に兵を配備する必要が無くなり、兵力の節約が出来るようになりましたが、それは鎮台側も同じで、むしろ薩軍の攻撃を警戒する必要が無くなった鎮台側は積極的に攻勢に転じ、北側にある京町を奪還しました(3月27日)。 薩軍の水攻めの策は、むしろ敵である鎮台側を優位にしてしまった事になります。 そして、京町奪還の翌28日、政府軍の密使が熊本城に入り、熊本鎮台は籠城戦開始以来初めて外部の戦況を知りました。 この時、北では政府軍は田原坂より薩軍を駆逐し、熊本城への道を切り開いていました。 南でも、海軍力を生かした政府軍の海上機動戦が展開されており、3月19日に日奈久に別働第二旅団(後に別働第一旅団に改称)が上陸し、八代を占領し南から熊本城へ北上を開始していました(4月1日には宇土にも上陸しました)。これら外部戦況の好転に、熊本鎮台の将兵の士気は上がりました。 しかし鎮台司令部は、手放しで喜んでもいられませんでした。 なぜなら、薩軍は弱体化してきていましたが、依然8千に近い兵力を熊本城の北に展開させており、政府軍の救援到着は時間の問題ながら、まだいつになるか見当がつきません。 そして籠城開始から約40日が過ぎ、兵糧不足が目立ち始めてきました。会計部の報告で、兵糧は4月17日までしか持たないという試算が届けられたのです。 ここまでは時間が熊本鎮台側に味方していましたが、これから先は時間が味方とは言えなくなってきたのです。 そのため司令部は、兵力の一部で熊本城の包囲を突破し、外の援軍に合流させる突囲作戦が検討がされることになりました。 この作戦は、いわば口減らし策でした。 仮に一個大隊約500名ほどが熊本城からいなくなれば、その分の食料が浮き、10日程度長く籠城を続けることが出来ます。そして一個大隊が減っても衰退の著しい薩軍が、熊本城へ全力攻略に踏み切ってくる可能性は小さく、鎮台側は不利にはなりません。 もちろん、口減らしと言っても、兵士たちを無駄に死なせるつもりはありません。薩軍の布陣の薄そうな東側に攻勢地点を定めました。 問題はこの突囲隊を誰が率いるかでした。ここでの隊長決定の経緯はかなり面白いものです。 当初、熊本鎮台司令官の谷干城少将は、自らが突囲隊を率いることを希望しました。 いかに将兵を無駄に死なせる意図はないとしても、城から遠く打って出る事は、全滅の可能性もある危険なものでした。それ故に部下任せにすることを潔しとせず、自分が陣頭に立ちたいと考えたのです。 それに対し参謀長の樺山資紀中佐は、「司令官は全軍の指揮を執るのが職務であり、一部隊を率いて出撃するのは部下の仕事」と諫めて、谷を諦めさせました。 そして樺山は、突囲隊を自分が指揮すると主張しましたが、参謀の児玉源太郎少佐が、「参謀長は司令官を補佐するべき」として彼も断念させました(本当は児玉は、樺山が負傷の傷が癒えていないことから反対だったのですが、それをいうと、強気な彼が意固地になることを知っていたので、あえて正論で説き伏せました)。 そして児玉は隊長に立候補し彼に決しかけましたが、それを第十三連隊第二大隊長の奥保鞏少佐(日露戦争時、第二軍司令官)が、「実戦指揮は参謀畑の任にあらず」と静かに主張した結果、突囲隊隊長は奥に、突囲隊を支援する侵襲隊指揮官は小川又次大尉(日露戦争時第四師団長で、同師団は第二軍に所属して戦ったので、小川は西南戦争に次いで奥の部下になりました)に決定しました。 奥保鞏は、谷によく似たタイプの軍人でした。 奇をてらわず才走ったところもなければ、猛将肌もありませんが、常に沈着冷静で肝が据わった人物でした(西南戦争中の有名な逸話は、突囲隊を率いて戦闘中に、銃弾が口から頬を貫通しましたが、彼は少しも騒がず、ハンカチで頬を押さえたまま、最後まで冷静に指揮を執り続けました)。 日露戦争時の僚友、黒木為もと(「もと」は「木」偏に「貞」です。環境文字のため入力できません・汗)大将(西南戦争時は少佐で、大山巌少将と共に、鹿児島への逆上陸部隊を率いて戦っていました)や乃木希典大将とは異なり、知名度はとても低いですが、どんな苦境に陥っても指揮が乱れることもなく、その任を全うした人物です。 しかしその功績を正しく評価されていた奥は、薩長閥以外(譜代大名小笠原家小倉藩出身)で初の元帥となりました。 話を元に戻します。 4月8日、午前4時、まず侵襲隊が、次いで突囲隊が千葉城方面から出撃しました。 侵襲隊が安巳橋を奇襲して引き付けている間に、突囲隊は薩軍の前線を突破し、東に大きく進みました。 計画では北の植木方面に向かう予定でしたが、南の川尻方面から盛んに砲声が聞こえてきたことから、突囲隊は南に進路を変えました。奥は砲声が激しく聞こえた理由を、政府軍が熊本城南近くまで接近している証拠と考えたのです。 鎮台側の突破に驚いた薩軍は、直ちに突囲隊阻止に動きましたが、この頃熊本城包囲の薩軍は800名程度まで減少しており(包囲というよりただ城の周りにいるだけの状態です)、効果的な封じ込めが出来ませんでした。 突囲隊は薩軍の薄い反撃を各所で打ち破りながら、水前寺から健軍方面に進路をとり、御船街道をひた走って緑川をわたりました。そして午後4時頃、隈庄に前進してきていた政府軍に無事合流しました。 一方侵襲隊は、突囲隊の作戦成功が確実視されるようになった午後3時頃、城内へ撤収しました。 この時城内の司令部を大喜びさせたのは、侵襲隊が九品寺にあった薩軍の物資集積場を発見し、米720俵・小銃100挺を奪って引き上げてきた事です。薩軍から奪った食料により、5月17日まで兵糧が持つ見通しが立ちました。 このことは鎮台兵の士気を高め、籠城戦はまだまだがんばれる余力を得ました。 しかし、食料の残りを心配する必要は、もう無かったのです。 次回は熊本城攻防戦の最終章です。
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