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カテゴリ:歴史
奥保鞏少佐率いる突囲隊が、包囲網突破を図っている頃、黒田清隆率いる衝背軍(八代、宇土方面から熊本城へ向かって北上している政府軍の呼称)は、来るべき熊本城救援に備えて、緑川南側で薩軍駆逐をおこなっていました。 黒田は木原山での前線視察中に、突囲隊の到着を知りました。 直ちに熊本城内の状況を把握すると、政府軍は熊本城救援に向けて動きを早めました(奥は侵襲隊が食料を確保したことを知らなかったので、4月27日頃に食料が尽きると報告していた事が、攻撃を急いだ大きな理由でした)。 4月12日、衝背軍は緑川を渡り、攻撃を開始しました(奥の突囲隊も、川尻攻撃の先陣を切っています)。 御船方面は突破に成功したものの、川尻では薩軍の抵抗が激しく、政府軍は後退しました。 しかし政府軍は、圧倒的優勢な大兵力と火力をもって翌13日も攻勢を継続し、ついに耐えられなくなった薩軍は敗走しました。 川尻方面の薩軍が大きく崩れたのを見た別働第二旅団右翼隊の山川浩中佐は、この機に熊本城に向かって突進を図りました。 ここでいつものように話がずれますが、山川浩についての解説です。 谷は日光口の戦いで土佐軍(谷は土佐藩士です)を苦しめた山川を高く評価して、戊辰戦争後、山川のもとを訪れてその勇戦を讃え、「これからはお国にご奉公してくれないか」と誘いました。 当時、賊軍出身者(例えば仙台藩出身の梅沢道治中将や、桑名藩出身の立見尚文中将などが有名です。二人とも賊軍出身でなければ大将になり、もっと重職についていたと言われています)への風当たりは強いものでしたが、谷はその後も山川をかばい続け、恩義を感じていた山川は、それに報いようと谷のいる熊本城救援に、全霊をかけていたといわれています(二人は西南戦争後も、生涯親友として交流を深め、お互いを支えあいました)。 翌14日午後4時頃、別働第二旅団右翼隊は熊本城下馬橋に到着し、鎮台兵たちから大歓声をもって迎えられました。 ここに50余日に及んだ熊本城の攻防戦は終わりました。 一連の熊本城攻防戦で、熊本鎮台側の死傷者は、戦死者177名(警視隊戦死者50名含む)、負傷者598名(警視隊の負傷者130名を含む)を出し(陸軍が編纂した『征西戦記稿』にある数字です。資料によって若干違いがあります)、一方の薩軍は、『血史西南役』によると、戦死者106名、負傷者約630名と伝えられています。 では熊本城攻防戦の意義について、触れてみたいと思います。 西南戦争の勃発により、九州における政府軍の本営、熊本鎮台の置かれた熊本城の存在は、大きな戦略的な価値を持ちました。 熊本城の安危は九州の安危であり、ひいては日本全体の安危となったのです。その認識は、政府・薩軍、そして国民も等しく認識していました。 もし熊本城が薩軍によって落城させられていたら、明治政府に不満を持つ全国の士族たちに、蜂起を誘発する可能性もあったのです(もちろん、全国の不平士族が反乱を起こしたとしても、明治政府が崩壊したかは定かではありません。ただし各地の反乱に対応するため、明治政府は九州にほぼ全軍を投入するような事が出来ず、西南戦争はもっと長期化していたかもしれません)。 したがって、熊本鎮台司令官谷干城少将は、籠城して熊本城防衛を第一に据えました。 薩軍の篠原国幹が、兵力の半数を失っても熊本城を攻略すべきと主張したのも、熊本城の価値を認識していたからであり、篠原と真逆の主張をした西郷小兵衛と野村忍介もまた、熊本城の戦略的な価値を軽視したのではなく、兵糧攻めで開城させることで、やはり戦略目標を達成しようとしたのでしたのです。 そして熊本城解放の報告が伝わった東京では、明治10(1877)年4月17日の東京日日新聞には、「官軍は既に熊本城に連絡したり。官軍は既に攻戦の第一目的を達したり」と論じられています。 熊本城は政府軍の最重要拠点として、薩軍の猛攻に耐えました。そして薩軍が熊本城の攻略に失敗し、政府軍の救援まで籠城軍が持ちこたえたことは、西南戦争の勝敗(少なくとも政府軍が優勢に戦局を進めていること)を決定づけました。 薩軍の攻撃に熊本城は落城せず、ついに政府軍の到着によって、危機が回避されたのを見て、全国の不平士族たちが薩軍決起に応じて蜂起するようなことはなく、戦争は九州での局地戦争となり、薩軍首脳部(ただし、西郷隆盛自身がそこまで考えていたかは定かではありません)や協力者たちが夢想した第二の明治維新は起きることなく、日本最後の内戦、西南戦争は終結していくことになったのです。 落城の悲劇を経験することなく、天下の趨勢に大きな影響を与えた点を鑑みても、熊本城は「天下の名城」の名に恥じない城です。 先日のブログでも触れましたが、熊本城は現在、昨年の熊本地震の影響で、大きなダメージを受けています。その姿は、地震前の熊本城の姿を知る人たちに、深い悲しみと衝撃を与えています(私も先日、地震の生々しい傷跡に、改めて被害の大きさを実感しました)。 しかし一方で、西南戦争中は司令部が置かれ、加藤氏時代に建築された宇土櫓は、今回の災害も無事に乗り越えました。 熊本城の修復は、まだまだ始まったばかりで、20年近い年月がかかることが予想されています。 かつての勇姿を取り戻すのはまだ先となりますが、その日を心待ちにしたいと思います。 最後に、熊本城攻防戦の主将谷干城の控えめで謙虚な人柄を示す漢詩(七言絶句)をもって、この話を終えたいと思います。
熊城固是れ好区寰
熊本城はまことに堅固な城だった。 ※太郎山とは、現在の熊本県南部にある三太郎峠の事です お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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