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2018.03.24
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カテゴリ:歴史

最初に(過去)プラモです。
​祖母鳥の従弟鳥(長ったらしいので、今回から「たかちゃん」と呼ぶことにします)が硫黄島に進出した際に、乗っていたであろう零戦21型です(↑)。​
零戦主体の戦闘機隊では、ベテラン搭乗員に新型の52型が、未熟な搭乗員には旧式の21型があてがわれていたそうですので、たぶん、21型に乗って進出したのではと思います。
ただ硫黄島進出中、邀撃戦となると、早い者勝ちで離陸するので、下の52型に乗っての出撃もあったかなぁと思っています。


船堀の上空をいつ飛んだのかが不明なように、たかちゃんの硫黄島進出がいつなのかは不明です。
​​​​​​ただ前回のブログで書きましたように、「本当はサイパンに行くはずだった」と言っている点と、「初めて落とした(撃墜した)のは、硫黄島でグラマン(アメリカの艦上戦闘機のF4F「ワイルドキャット」やF6F「ヘルキャット」の事。どちらもグラマン社製だったことから、日本のパイロットたちからは、普通に「グラマン」と呼ばれていました)だった」と言っていることから、たかちゃんの硫黄島進出は、遅くとも昭和19(1944)年5月から6月ごろの事だったのではと思います。それより早い進出だった場合、恐らくサイパンに進出出来ていたはずですから。​​​​​​
そして、たかちゃんの初陣ですが、昭和19年の6月から7月ではないかと思います。
​というのも、硫黄島が米艦載機による初空襲を受けたのは6月15日のことになります。この4日前、米軍はサイパン島攻略を開始しており​(米空母機動部隊による空襲は6月11日から、米軍の上陸は6月15日からです)​、その後方連絡線にあたる硫黄島への攻撃は、6月15日から17日におこなわれました。​
さらにマリアナ沖海戦(6月19~20日)を経て、完全に制海権を掌握した米軍は、6月24日と7月4日に、小笠原・硫黄島方面に、再度空母機動部隊を北上させて、空襲していました。
​海軍の航空隊が、硫黄島から完全に撤収するのは11月で、米空母機動部隊による大規模な空襲の再開は、翌年昭和20(1945)年になってからになりますから(この空白期間の間、米軍の空母は、フィリピン戦支援で忙しく、あまり硫黄島方面では活動していません)
​​​ただし、最後の7月の時は、すでに現地の零戦隊は消耗して戦闘不能状態になっており、たかちゃんは(最後の)戦闘が終わった帰ってきた時は、完全に夜中だった」と言っていようなので、もっと状況を詰めれば、恐らく6月の15日から17日までの戦闘のいずれかではないかと思っています。​​​
となると、硫黄島に到着早々に、銃火の洗礼を受けたことになりそうです。
​初陣ということもあり、果敢に迎撃して敵機を落とす・・・というわけにはいかなかったようで、ほぼ空中退避(飛行機を地上で破壊されないよう、飛んで逃げていること)状態だったようです。​
​ただそんな中で、運よくというか、偶然というか、油断していたグラマン戦闘機を不意打ちすることができたようで、それが初めての撃墜だったようです​(「夢中だったので、よく覚えていない。一回の攻撃で全弾撃ち尽くすぐらい下手な射撃だった」と言っていたようです)​。​
たかちゃんは幸運だったと言えるでしょうね。ただでさえ戦死しやすい初陣、しかも戦力差が1対10以上の劣勢な戦況で、航空機の性能も劣るという悪条件が重なる中で、敵機を撃墜して、生還出来たんですから。
​逆に運がなかったのは、たかちゃんと同じ部隊にいた幼馴染(祖母鳥もその彼の名前と顔は知っていたと言いました)の方でした。​
​​​その幼馴染の方は、直掩隊​(敵襲に備えて、飛行場や艦隊の上空で警戒に当たる隊)​にいたようですが、燃料が尽きたか被弾したかで、硫黄島の飛行場に引き上げたところ(たかちゃんは、引き揚げていく幼馴染機に気が付いたと言っていたようです)、飛行場を機銃掃射しようと、低空で侵入してきたグラマン機と、空中衝突して戦死しています​​​​​(遺体を確認したのはたかちゃんで、彼曰く、「首から下は残っていなかった」状態だったそうです。戦後、幼馴染の両親にたかちゃんは戦死の報を伝えたそうですが、さすがに見たままを言えるはずもなく、「死に顔を見ましたが、苦しんでません。即死でした」とだけ伝えたそうです。祖母鳥には「あいつ(幼馴染)も未熟だったが、敵(のパイロット)も未熟だった。だからいかに暗闇とはいえ、高度を見失って地上すれすれまで下がっていることに気が付かず、滑走路に(車輪が)つく寸前の幼馴染機と衝突したんだ。あと数メートル高く飛んでいたら、二人とも死ななかったろうに」と話したそうです)​​​​​。​​​
​7月の米機動部隊の攻撃で、硫黄島の海軍航空隊は壊滅状態となり、8月に訓練に時間と手間のかかる貴重なパイロットを、地上戦で消耗させまいという上層部の判断から、搭乗員たちは硫黄島から脱出しますが(世界的に有名な撃墜王坂井三郎氏が、硫黄島を離れたのもこの時です)、どうもたかちゃんはこの時残留組だったようです。​
​後の硫黄島の戦闘を知っている人からすれば、オイオイとため息が出る話ですが、本人はそれが「自分が生き残れた原因だった」と言っていたようです。​
というのも、その時引き上げた戦友たちの多くは、この後始まったフィリピン戦に投入されて、多くが生きて帰れませんでした。
​​​
硫黄島に残ったたかちゃんたちは、その後細々とした機体補充や修理で、なんとか戦力を回復して、サイパンやグアムから、硫黄島を定期的に空襲に来る米軍の四発爆撃機B24「リベレーター」などと戦って、経験値を積むことができたようです(​「硫黄島に行かなければ、フィリピンに送られたかもしれないし、​(硫黄島で)四発機と戦い慣れしていたから、特攻に回されずに済んだのだと思う」と言っていたそうです)。​​​
昭和19年代後半と言えば、米軍の攻勢は、マリアナ諸島からフィリピンへと移っており、硫黄島方面は少しだけ息抜きをできていたようですが、それでも米軍の大物量の前に、硫黄島残留の海軍航空隊も戦力を消耗していき、とうとう完全撤収となりました。
​​陸軍の戦闘機隊と交代して(あまり知られていませんが、昭和20年の米軍上陸の直前まで、陸軍の戦闘機隊は硫黄島で戦いました)、たかちゃんたち残留組も日本本土に帰ってきました(たぶん昭和19年の11月ごろと思いますが、いつ帰ってきてかは不明です。ちなみにこの時期、硫黄島の零戦隊がサイパン島を強襲して、B29約10機を地上で破壊していますが、その作戦には参加していないの確かです。なぜならその作戦は大戦果をあげたものの、出撃した零戦隊は1機も生還しなかったためです)。​​
そして本土に帰ってきてから、ずっと前にブログで書いたように、ようやくたかちゃんが、紫電に乗る話になります。





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Last updated  2018.03.25 12:37:05
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