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2020.08.23
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カテゴリ:歴史

何をしてもはかどらない日々が続いています。
たぶん、猛暑でばて気味なんでしょうね。不整脈っぽい症状も依然続いていますし。

2月に行ってきました深大寺城の話の続きを、ポチポチ書き始めました。
・・・書くまでに半年か。何という遅筆ぶりなのか。
あと、「続き」というのは、ふさわしくないかもしれません。
​​というのも、深大寺城の攻防が話の中心になるわけではなく(ネタバレになってしまいますが、深大寺は戦場になっていません)、あくまでも築城をきっかけに自体が大きく動いたというべき話だからです(なので、前に書いた熊本城の時のように、「深大寺城攻防戦」とかタイトルつけられずに、ちょっと苦労しました・苦笑)
​​
まず、なぜ深大寺に築城されたのか、そのバックグラウンドについて見ていきたいと思います。
​​深大寺城が築城されたのは、1530年代(天文6(1537)年4月頃の普請と言われています)に、扇谷上杉家の手によってです。​​
扇谷上杉家はなぜ深大寺に城を築いたか、当時の関東情勢を俯瞰したいと思います。
まず関東は大きく5つの勢力によって分割されていました。
​​​​​足利将軍家に連なる古河公方(下総国古河が本拠地。主に下総や下野、常陸に勢力を持ちました)と小弓公方(家督争いの結果、古河公方家から分離した庶流。上総国小弓城に本拠地を置き、上総、安房などに影響力を持ちました)、関東管領山内上杉家(上野、越後の守護をつとめ、武蔵にも影響力がありました)、上杉家庶流の扇谷上杉家(元は相模国も領土にしていましたが、この頃は武蔵のみです)、そして伊豆国と相模国を切り取った新興の後北条家(鎌倉幕府の時の北条氏と区別するため、戦国時代の北条氏には、前に「後」が付いて区別されます)です。これらが関東の国人衆を巻き込んで争っていました。​​​​​
それぞれの陣営は、時に争い時に和睦していましたが、この頃特に激しい対立関係にあったのは、後北条氏と扇谷上杉氏でした。
​元々相模は扇谷家の領土だったのに、山内上杉家や古河公方との抗争に集中している隙に、北条早雲に奪われたので(現在、早雲の相模入りは、小田原城代大森藤頼が山内家に寝返ったため、扇谷家の依頼で侵攻したと考えられています。その後早雲は領土を扇谷家に返還せず自領化したため、両者は敵対関係になりました)、大きく勢力を衰退させる結果になりました。ですからその恨みは深いものでした。​

と、ここでまたまだ脱線です。
​​「北条早雲」と記しましたが(便宜上、私も早雲名を使いますが)厳密に言えば、「北条早雲」と言う名の武将は存在しません。彼の名は伊勢新九郎盛時(出家後は「宗瑞」を称します)と言います。伊勢氏が北条姓を名乗るのは、彼の息子で2代目の北条氏綱からです。​​
​​さらにいうと、早雲は素浪人で都での立身をあきらめて駿河に下り、そこから一国一城の主になった乱世の梟雄と言われていますが、実際の彼は足利将軍家政所執事を世襲する伊勢氏の庶流で、早雲も申次衆(将軍への取次役)と奉公衆(将軍直属の武人)に名を連ねていたようです。​​
​​駿河下向も、将軍足利義澄(第11代将軍)の命を受けて、内紛の起きていた今川家家中の調停と、足利茶々丸(義澄の異母兄弟で、家督をめぐって義澄の生母や弟を殺害しました)討伐のために、幕府から派遣されたという説が、現在有力になっています。

話を元に戻します。
​後北条氏の伸長に対抗するため、この頃扇谷家と山内家は和睦して対立を深めました(伊豆は山内家の領土でしたが、茶々丸討伐にかこつけて早雲が、伊豆の国人衆を家臣化して領土を奪っていったため、今まで対立していた両者は、早雲を敵とすることで講和しました)。​
​一方、早雲の死後、家督を継いだ北条氏綱も、関東計略を主眼に据え、背後の駿河今川氏と同盟関係を維持しつつ(駿河下向後の早雲は、終生今川家の部将という立ち位置であり、氏綱も同じ立場にありました。この頃の北条氏の立場はかなり複雑で、今川家を主君とした主従関係を結んでおり、早雲も氏綱も、今川家の動員の応じて、遠江や三河での戦いに参陣しています。一方で、幕府と強いパイプを持っていたため対外交渉においては、今川家にお伺いを立てるようなことは無く、幕府と直接交渉出来る立場を有していました。そのため形の上では今川家の部将ですが、内実は独立した大名でもありました。北条氏が今川氏より独立した大名であると正式に認知されるのは、氏綱の子氏康の時代で、有名な武田・今川・北条の三国同盟締結時の事です)、古河公方と結んで、両上杉家と争っていました。​
積極的かつ大胆に領土拡大を図った父早雲とは異なり、氏綱は治世の半分を内政に力を注ぎ、戦よりも計略で領土を広げていました。
父子の違いを、「早雲は国を盗り、氏綱は国を造った」と表現する歴史家もいます。
氏綱の計略により、扇谷家は次第に弱体化して、武蔵の国人たちは次第に北条氏になびいていきました。
大永4(1524)年、氏綱は満を持して武蔵に侵攻し、高縄原の戦いで扇谷勢を破ると、江戸城代の太田資高を寝返らせて、江戸城を難なく手に入れました。
江戸城失陥は、扇谷家の上杉朝興にとって、手痛すぎる失態でした。
​当事の江戸は関東きっての経済都市であり(そのため徳川家康も、関東入府後、小田原城ではなく江戸城に本拠地を定めました)、北条氏と戦うための軍資金や兵糧のほとんどを、江戸に集めていたので、朝興が苦心して集めていたそれらは、そっくり北条に奪われてしまったのです。​
​​巻き返しを図る上杉朝興は、甲斐の武田信虎と同盟(信虎の嫡男晴信(信玄)に娘を嫁がせています)する一方(そのため氏綱は、甲斐の郡内にたびたび兵を送って焼き討ちを行っています)、山内家との連合して鎌倉を襲撃しまたが、すでに北条氏による相模支配は安定しており北条側は小田原城・江戸城間を堅守し、扇谷側は占領を維持することは出来ずに疲弊し、撤退を余儀なくされていました。
そして反撃の時を得ることなく、朝興は天文6(1537)年4月に世を去り、13歳の上杉朝定が扇谷家当主となりました。

そして朝定の死の後、ようやく扇谷家が待ち望んだ時がやってきました。
この時期氏綱は、同盟関係にあった古河公方との盟約にもとづき、小弓公方側の上総守護真里谷武田氏の内紛に介入して、上総に派兵していました。
​恐らく、当主の死で扇谷側に大規模な出兵を行う余力がなくなったと見たのでしょう(最新の研究で、この頃の武士の主従関係は、当主との「個人間」契約関係であり、当主が死ねば主従関係が解消されていたと考えられています。この頃まだ大名が働き盛りなのに隠居して、息子に家督を譲ったりというケースが多いのは、自身の目が黒いうちに、息子と家臣団の契約関係を結ばせて関係を、円滑に継続させようという意図からと考えられています。したがって、当主が突然死亡すると、家中が分裂することが多くありました)。​
​しかし上総での戦況は、中立姿勢だった安房の里見氏が小弓公方側に参戦したため(もともと里見氏は小弓公方を主君としていたので、古河公方方の北条氏とは敵対関係になっていましたが、江戸湾の海上権益を北条氏と分け合って共存していたので、大きな敵対行動はとっていませんでした)、短期間で終わると考えていた氏綱の思惑は外れ、泥沼化しました。​
さらに駿河の今川家では、花倉の乱と呼ばれるお家騒動が起きていました。
​氏綱は直ちにこれに介入し、栴岳承芳(後の今川義元)を応援して混乱収拾に尽力しましたが、内戦が終結すると、承芳は北条と敵対する武田信虎と婚姻関係を結び同盟を結びました。​
利用されるだけ利用されて、切り捨てられる形になった氏綱は激怒し、ここに河東の乱と呼ばれる北条・今川両家の戦争に発展しました。
北条勢は、富士川以東の駿河領を占領しましたが、数において優勢な今川・武田勢を相手に、駿河での戦争は泥沼化したため、北条家は上総と駿河で戦線が膠着して、軍の大半が拘束される甚だ不味い状況に陥りました。
今、北条氏に味方しているのは軍事的な支援をしてくれない古河公方だけで、北条と領土を接する今川、甲斐武田、小弓公方、真里谷武田、里見のすべて敵となり、しかも領国の東西で、軍の大半を動かせなくなってしまったからです。
そして北条のピンチは、扇谷のチャンスでもありました。こうして、深大寺城築城に踏み切りました。

・・・また例によって、前振りだけで終わりっす(汗)





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Last updated  2020.08.26 21:45:18
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