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カテゴリ:西暦535年の大噴火
超久々の「西暦535年シリーズ」です。 年内で、あと1回ぐらいは更新できたらいいなぁ・・・。 さて、歴史に興味のない人にも有名なのが、南米ペルーにあるナスカの地上絵でしょうね。 地上絵は、1920年代に上空を飛んでいた飛行機のパイロットが偶然発見し、その後の調査で、ナスカ川とインヘニオ川に囲まれた乾燥した盆地状の高原地帯一帯(正式な地名ではないのですが、俗に「ナスカ高原」と呼ばれています)から、次々と発見されました。 地上絵の種類は、大きく二つに分類されます。 一つは動植物や人間などの絵で、もう一つは巨大な渦巻や台形、平行線、放射状の線、直線などの幾何学模様の図形で、確認できたものだけで1300個の地上絵があります。 大きさも、小さいもので4mの台形の図形、大きいものでは180mを超すイグアナの絵があり、種類も大きさもまちまちですが、「空からでないと見えない」という謳い文句の通り、大半の地上絵は、空からでないと見るのは困難です。 そんなこともあって、ナスカの地上絵は、「いつ造られたか」よりも、「人が地上で見られない絵を、何の目的で造ったか」に関心が向きがちです。 ざっと唱えられている説は、「雨乞い説」「星の運行図説」「農耕カレンダー説」「神々を多々売る宗教界絵画説」、はてまた「宇宙人or古代アトランティス人が造った宇宙港説(苦笑)」等があります。 まぁ、最後の説はとりあえず置いておきまして、どの主張にも一理あるものの、「これだ!」という決定打に欠けているため定説はまだありませんが、いくつかの証拠から、近年では雨乞い説が有力視されるようになってきています。 地上絵が作られて年代ですが、考古学的な調査で、絵の近くに作業に携わった人々の仮住まい跡や、遺物(焼き物で出来た水入れの欠片等)、現場作業に使用した杭が発見されています。 それらを放射性炭素年代測定法によって鑑定したところ、西暦525年±80年の遺物であるという結果が出ました。 つまり地上絵は、6世紀頃に造られたと、範囲が絞りこまれたのです。この結果、古代アトランティス人が1万2千年前に造ったという説は、まったく当てはまらなくなりました(なむなむ)。 そして6世紀の南米地域の気象はどうだったのかというと、ナスカ高原から370km程離れたところにあるケルカヤ氷河(アンデス山脈にある氷河。近年地球温暖化の影響で、縮小傾向にあると言われています)の氷縞調査から、西暦540~570年頃に、30年近くに及ぶ長期間の大規模な干ばつが起きていたこともわかっています。 この辺は、前のテオティワカンや、ユーラシア大陸の事情と同じですね。 元々ナスカ高原は非常に乾燥した地で、もっとも降水量の少ないところでは、100年間に6mm程度の雨しか降りません。普段から水を得るのが大変な地域ですから、30年近い大干ばつは、深刻なダメージになったと考えられています。 そして雨乞い説の根拠ですが、まず、地上絵付近にはミイラ化された遺体(恐らく生贄)やトウモロコシなどの供物が発見されている点、地上絵に隣国エクアドルでしか採れない貴重品のスポンディルス貝(鮮やかな赤色をしたウミギク科の貝)の破片が見つかっている点が、大きな根拠となっています。 スポンディルス貝は、他の南米の遺跡からも発見されていますが、用途はいずれも共通して、雨乞いの儀式で使われているものです。 そして、西暦540年代からの30年に及び大干ばつの痕跡、その時期に描かれた地上絵、雨乞いの儀式で使われるスポンディルス貝というキーワードから見えてくるのは、ナスカの地上絵は、雨乞いのために描かれた可能性が高いという結論になります。 ちなみに地上絵の作成方法ですが、実は現代人が思うほど難しくありません。 オカルトマニアからは、「地上から見えない絵を、飛行機のない時代に描くことは不可能だ」と言われていますが、実際には、宇宙人や古代アトランティス人を連れて来なくても、人間の手で十分作成可能です。 用いた方法ですが、2通り考えられています。 一つは拡大法と呼ばれるものです。 まず、絵を描きたい高原の一角に下絵と基準点を作り、そこから順次作図していくという方法です。 これなら別に上空から見て指示しなくても、1つの形のある絵を描くことができます。仮に微妙に構図のゆがみや形のずれが出たとしても、地上絵の幅は1~2m位、深さも20~30cmの大きさなので、上空から見ればあまり目立つものでもありません。 事実、地上絵付近には、基点となったと思われる部分に杭の跡が見つかったり、下絵が発見されているケースもあるようです。 お互いの作業位置が見えないような大きな地上絵の場合、いつくかの場所で大雑把な基点を取り、見本となる下絵の縮図を近くに描きながら、何度も確認したり修正しながら描いていったという感じなのでしょう。 ちなみに、この方法を唱えたのは、九州産業大学工学部の諌見泰彦准教授で、小学生児童による実験で、成功を収めています。 もう一つは、山形大学の坂井正人教授の唱えた目視描画と呼ばれる方法です。 こちらは下絵を元に、目視でお互いの位置を取って調整しなが描画していく方法で、やはり小学生による実験で100mの地上絵を描くことに成功しています。 どちらの方法も共通しているのは、地上絵は、適切な作成手順と監督者の指示があれば、子どもでも描くことが可能ということです。 この事実は、軽んじてはいけない話です。世の中には未知の遺跡や遺物は数多く存在し、ともすれば、宇宙人や古代アトランティス人など、オカルト的な解釈をしたくなってしまいますが、わざわざそういう存在を連れて来なくても、説明できることは多くあるのです。 私はオカルト好きですが、安易に宇宙人や超古代文明、陰謀論を持ち出す方を、あまり信用しません。 何故ならそれらは「最強」の存在で、どんな出来事でも「説明」出来てしまうからです。 それは事実を迷宮入りさせるのと同じことです。 とまぁ、話を元の戻します。 さて、地上絵が雨乞いだとすれば、それは神々へのメッセージということになります。 苦心して祈りを捧げていた人々ですが、もちろん、地上絵描画(神頼み)だけをしていたわけではありません。 人々は少しでも水を得ようと、プキオと呼ばれる地下水路を作り(水路の製造年代も、放射性炭素年代測定法で6世紀半ば以降に造られたと鑑定されています)、井戸を掘って、水集めに腐心していた痕跡も見つかっています。 しかし、水の確保、食料の調達は、やはり困難だったのでしょう。年代測定で、6世紀後半ごろと鑑定された遺跡の中から、戦で殺されたものの首塚も発見されています。 いずれも頭蓋骨に、むごたらしい拷問や暴行の痕跡があることから、水・食料不足に端を発する争いで、殺された可能性が高いと考えられています。 ですが30年に近い干ばつで、人々を助けるほどの水を確保することは出来ず、多くの住民が死に、生き残った者も土地を捨てて、ナスカ文化は砂と荒野の中に埋もれていきました。 ちなみに、「ナスカ」とは、地元ケチュア語で「ナナイ(「苦悩」という意味)」が変化して、「ナスカ」と呼ばれるようになったと言われています。 世界遺産「ナスカの地上絵」は、約1400年前に生きた人々の苦悩と祈りを、現代に伝えている遺物としてとらえた時、皆さんは地上絵に、どんな思いを見ることができるでしょうか。 それを考えることも、立派な科学的な考察なのです。
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