「いじめ」について
いじめの問題は悲しいことではあるが古今東西あり、なくならないと思う。人間は自分より弱いものをつくって優越感に浸ったり安心感を得、複数人でいじめて連帯感を作ったりする。そういうわけでなくならない問題であるからこそ、それに対する対処法を考えなければならない。江戸時代の歴史を紐解いてもえた・ひにんという人たちがいた、どうしても自分より下の人を作って安心したい心理があるようだ。小学生のころ私もいじめというか親友に無視をされたことがある、理由は私の方にあって仲が良いから調子に乗って言い過ぎてしまったのだ、今ではもう仲直りしてお互い気心が知れた関係であるが当時は本当に辛かった。愛の反対語は暴力ではなく無関心だとかのマザー・テレサはいったがその通りだと思う、存在をまるきり認められなくて空気のように扱われるほど辛いものはない。私はそのとき彼はあきらめて他に友人を作った。クラス外の友人や部活の友人、委員会の友人、近所の友人、そうして自分の居場所を作った。親はそのときかなり助けてもらったが、ただ一点親のご都合主義だと感じたのは「悔しかったらそのエネルギーを勉強に向けな」といわれたことだ。いじめられると成績にも影響する、やる気が起きないのだ。みるみる下がっていった。中学受験の必要ない田舎の学校だったのが幸いだった。正直今思えばこの無視の事件はあってよかったと思う。人の付き合い方を嫌というほど考えさせられたし、当時親友だった彼には感謝しているくらいだ、その後特に人間関係で特にトラブルも起こすことなく今までやってこれたものこの事件があったためだと思う。この事件から私はいじめに会うことはなくなったが周りでいじめにあう友人は中学以降どこでも目にした。そのときどうするか、私の場合はそんな噂や陰口を聞いても彼らと今までどおりの付き合い方を続けた。声高にいじめはやめろとはいわない、いじめている本人たちはいじめは悪いことで恥ずかしいことだと知っている。そのためいじめを指摘されると恥ずかしさを打ち消すためやめろといった本人にいじめのターゲットとなる場合が多いと思う。正面切ってもなかなか根本的な解決にはならないと思うし博打だと思う。私の場合ラーメンに虫が入っていてもなかなか言えないのでいじめをやめろというのは難儀だ。当時は気がつかなかったが、いじめられた子と変わらず付き合ったことは自分の最良の選択だと思う、いじめられていても自分に居場所があれば何とかなると思う。いじめをとめようとして声高にいって問題が大きくなるよりも自分としては良かったと思う。知人のブログのコメントにも書いたのだが、レイモンド・チャンドラーが強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない。と言った、いじめられた子には前半部分、いじめた子には後半部分を理解してほしいものだ。