野球殿堂入りが18日、東京都内の野球殿堂博物館で発表された。アマチュア球界からは法大で東京6大学リーグ史上最多の48勝を挙げた山中正竹氏(68)が特別表彰で選ばれた。
山中氏が殿堂入りしたのも何かの縁だろう。野球が東京五輪の正式種目に採用されるか決まるのは8月。初めて正式種目となったバルセロナ五輪で銅メダルを獲得し、その監督を務めたのが山中氏だった。五輪監督としては2人目だが、法大の恩師・松永氏はロサンゼルスの公開競技だった。「金は宿命。日本野球のため力になれれば」と4年後を見詰める。
金字塔は投手として、東京6大学での通算48勝。同リーグの最多勝記録として今後も不滅だろう。「この数字のおかげで、卒業後もやれるんだという誇りを持つことができた」と言う。敗戦処理の1イニングに始まり、優勝胴上げ投手の1イニングが最後のマウンドだった。
1年春の明大戦、0-6の8回裏に初登板。大学では1試合でいいからマウンドに立ちたいというのが夢だった。感激の涙でかすむ視界の中で投げ、最後の打者がDeNA高田GMで無失点に抑えた。その後は1年秋から4年秋まで、カード初戦の先発を1度も譲らなかった。(日刊スポーツ)
■学生野球、アマチュア野球の指導者、そしてプロ野球DeNAの専務取締役も務めた山中正竹氏が野球殿堂入りしました。
殿堂入りに際し、なぜ48勝できたのかと聞かれ、「当時は東京六大学も群雄割拠の時代であり、第3戦までもつれることが多く、自ずと勝ち星が増えた」とのコメントもありました。この金字塔の記録達成は昭和44年、以降、この数字を破られていません。現在も東京六大学野球連盟の通算最多勝利記録であり、今後もこの記録が破られることはあり得ないでしょう。ちなみに斎藤佑樹は31勝。
山中氏が学生だった群雄割拠の時代、どんな選手がいたのか。そのことにボクは興味を持ちました。さっそく調べてみると、のちにプロでも大いに活躍した選手たちがゾロゾロ・・・。
まず山中氏のいた法政大には田淵幸一、山本浩司(のち浩二)、富田勝のいわゆる「三羽烏」が、そして江本孟紀もいました。明治大には高田繁、星野仙一。早稲田大には荒川堯、矢沢健一、八木沢荘六、三輪田勝利。そして立教大には槌田誠、小川亨、谷木恭平。
山中氏の言葉どおり、こういった選手たちが同時代にいたからこその48勝と、言えるでしょう。
(写真1)昭和42年秋、法政が優勝を決めて田淵幸一が山中正竹を抱き上げる。~『大学野球熱闘史』(ベースボール・マガジン社)より。写真2も同じ。
(写真2)同じく昭和42年秋、優勝決定後の記念写真。神宮にて。前列左から2人目が山中正竹。後列右端が山本浩司(のち浩二)、隣が田淵幸一、そして富田勝。
■ただ、これまで山中氏の記録を超える投手は本当にいなかったのか、そんな疑問が湧いてきます。なぜ「怪物」と呼ばれた江川卓は、山中氏の記録を破れなかったのか、なぜ47勝で止まったのか。結論を先に言うと、江川は本当は新記録、いやせめてタイ記録を達成できたはずです。ところが、自らその可能性を閉ざしてしまったのです。その理由をこちらに書いていますので、興味のある方はどうぞ。
http://plaza.rakuten.co.jp/amayakyuunikki/diary/201401160000/
(写真3)作新学院時代の江川卓。いま、朝日新聞の連載記事『あの夏』では、昭和48年の作新学院ー銚子商の戦いが紹介されています。~『高校野球 熱闘の世紀』(ベースボール・マガジン社)より。
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