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あま野球日記@大学野球

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2016.02.02
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テーマ:日本野球史(134)
カテゴリ:日本野球史

鶴岡一人さんの選手を見る眼力には定評がありました。他球団の新米スカウトには、鶴岡さんが訪ねた選手宅をあとから軒並み訪ね歩いたという逸話もあるほど。しかし、選別眼だけで選手を獲得できるほどプロ野球の世界は甘くない。昭和40年にドラフト制度が始まる以前は、現代よりさらに魑魅魍魎の世界であって、さすがの鶴岡さんでさえも、その競争に巻き込まれることが度々でした。


■まず穴吹義雄の獲得。壮絶なスカウト合戦の様子を小説、映画化した『あなた買います』のモデルにして、のちに南海監督に上り詰める穴吹を最初に見出したのは、実は鶴岡さんでした。もともと東京農大の円子投手(後に南海入り)を見る用で神宮に行ったところ、そこで目についたのが中央大のサード穴吹。当時はまだ3年生でしたが、すぐに会う手はずを整え、以後も頻繁に接触を繰り返し、見事獲得に成功しました。この成功事例に、鶴岡さんは鼻高々に(笑)こう言いきります。

「スカウト合戦の決め手として、その選手の進路決定に一番影響力をもつ人を探し当てるということがある。幸いわれわれは穴吹君の高松高、中大を通じて先輩の名を聞き出した。その人が大阪に住んでいたのもラッキーだった。私と富永マネージャーが頻繁に会って、いち早く入団を決めた。
穴吹君が4年生になると、表面的には争奪戦が激化した形となり、各球団関係者が高松の親もとへ集まった。巨人は郷土の先輩の水原監督が出馬した。私もゼスチャーで高松へ乗り込んだが、実際は大阪で勝負がついていた」。




■でも、良いことばかりではありません。次に、立教大・長嶋茂雄獲得にまつわる失敗談を。
昭和30年秋、鶴岡さんは、大阪球場で行われた東京、関西六大学対抗戦で初めて長嶋を見ました。この時ももともと長嶋目的ではなく、立教大の2年先輩・大沢外野手がお目当てでしたが、長嶋の守備に惚れ、まだ2年生だったにもかかわらず、正式に南海入りを勧めるほどのスピード交渉でした。

そして長嶋が4年生になると、長嶋からは「南海にお世話になります」という返事もあり、契約金の準備も済ませてこれで準備万端、と思ったのが大きな間違い。秋になると状況が一変。突然、長嶋の兄が「弟は南海へ行かないかもしれません」と言いだし、鶴岡さんは慌てて東京へ飛びました。

「会ってみると、長嶋君は『すみません、すみません』と繰り返すばかりだった。なおも聞くと、長嶋君は涙を浮かべて『兄弟げんかはするな。二人でよく話し合えと、母が・・・』と言った。巨人が千葉の有力者や立大OBを動かして、長嶋家を揺さぶったらしいのだ。お父さんがいない家庭で、兄弟二人。その一人の身体が弱いとなれば、遠くに行くなということになるだろう。やむを得ないとあきらめた」。



■そして、これも失敗談。早稲田大の広岡達朗。長嶋の獲得失敗に先立つ昭和28年のこと。
鶴岡さんにとって広岡は、広島・呉の二河小学校の後輩にあたり(つまり出身地がご近所)、父君に挨拶に行くと海軍士官だった実直な人柄で、息子のことは本人まかせなので、どうぞよろしくと返事をいただいた。その勢いで東京に遠征に行くたびに会い、南海への入団を勧めました。本人の反応も良く、入団の内諾も得ました。

ところが、これも途中から雲行きが怪しくなりました。広岡の婚約者が大阪行きを渋ったことが原因とか。『東京で育った女性は、どうして大阪へ行くのを嫌がるのだろうか』。鶴岡さん、巨人の攻勢が裏にあったことも匂わせましたが嘆くことしきり。これを痛恨の失敗だったと書きました。



■最後に、別府緑ヶ丘高の稲尾和久のこと。
「無名だった稲尾君を西鉄が発掘して育てたというのが定説になっている。しかし、本当は最初に目をつけたのは南海だった。当時、南海は肩や肘を痛めた投手を別府へ湯治に行かせていた。その一人が、いい捕手がいると知らせてきた。それが投手になる前の稲尾君だった」。

鶴岡さん、急いで別府へ駆けつけ、神社の境内で稲尾のピッチングをテストしました。稀にみるほどの投手だったため、すぐに契約を試みるも、ここでも邪魔が入ります。

「後援会と称する人たちがやってきて、暗に金を要求した。『あなたたちに差し上げるぐらいなら、稲尾君に上積みしてやる』とキッパリ断った。結局、そのあたりから情報が洩れ、稲尾君は西鉄入りした」。

そして、鶴岡さんは、こう言います。
「とかく批判のあるドラフト制だが、同制度実施以前には、この種の人間が群がって、我々を悩ませたものだった」。



DSCN0241.JPG

(写真)立教大時代の長嶋茂雄。~『永遠のミスター 長嶋茂雄の世界』(報知新聞社)より~






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Last updated  2016.02.02 23:43:19
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