カテゴリ:日本野球史
1949年(昭和24年)春、日本のプロ野球の生みの親・正力松太郎は「日本にも2リーグ制を作りたい。そのために現在の8球団に4球団を加え、12球団にしたい」と高らかに宣言した。東京六大学野球こそが日本の野球の象徴的存在であり、プロ野球は蔑まれていた時代。しかしここにきて正力らの尽力により、プロ野球もやっと人気が沸騰するに至り、前述の正力発言が生まれた。 そしてこの49年は、巨人にとっても様々な事件が起きた年だった。そのひとつは「別府引き抜き事件」。この事件の背景には、当時巨人の監督だった三原脩の、打倒南海の執念があった。それは・・・、 ちなみに前年の順位を紹介すると、優勝は南海。そして5ゲーム差で2位巨人、大きく離されて3位阪神(17ゲーム差)、4位阪急(20ゲーム差)と続く。つまり戦後優勝のない巨人にとって、南海を倒すことが至上命題。 そのため三原が企てた策は南海のエース・別所毅彦の引き抜きだった。あまりにも短絡的、単刀直入すぎる感があるけれども(笑)。以下は、三原が当時選手だった青田昇に語った内容で、以後脈々と続く巨人のトレード戦略の基盤とも言えて興味深い。 「別所が今シーズン、巨人で1勝もできなかったとしても、彼の(昨年の勝ち星の)26勝が南海から消えるだけで、ウチが優勝できるのだから」。(※1) 結局、別所は49年開幕から2か月間の出場停止処分を受けるけれども、別所をはさんで巨人と南海の感情はこじれこじれた。当たり前である。南海にとっては自チームのエースを勝手に奪い取られたのだから面白いはずがない。そんな両者が4月12日から後楽園球場で3連戦を戦った。険悪な空気が漂う遺恨試合とでも言おうか。 そして1勝1敗で迎えた第三戦目にとんでもない事件が起きた。世に言う「三原ポカリ事件」である。 興味のある方は、こちらの「三原ポカリ事件」をどうぞ。 (※1)『三原脩と西鉄ライオンズ 魔術師』(立石泰則著、小学館)より。 2か月間の出場停止処分を受けていた別所投手は、6月5日、巨人のユニフォーム姿で現れた。 ~『激動の昭和スポーツ史 プロ野球』(ベースボール・マガジン社)より~ 野球五十年(増補新版) / 大和球士 【中古】 魔術師 上 三原脩と西鉄ライオンズ(小学館文庫)【電子書籍】[ 立石泰則 ] 魔術師 下 三原脩と西鉄ライオンズ(小学館文庫)【電子書籍】[ 立石泰則 ] 激動の昭和スポーツ史 1 プロ野球 上【中古】 【エントリーでポイント10倍!(4月16日01:59まで!)】【中古】スポーツ雑誌 全18巻 激動の昭和スポーツ史(2) プロ野球下 昭和40年〜平成元年 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.04.19 06:25:48
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