テーマ:日本野球史(134)
カテゴリ:日本野球史
「怪童」の異名をとった中西太さん。この中西さんの同世代の選手とはいったいどんな人たちだろう?と思い、中西さんと甲子園で対戦した選手を調べてみた。 高松一高時代、中西さんは甲子園に3回出場している。 1回目は昭和24年春。準々決勝で小倉北と対戦しスコア0-4で完封負けを喫した。小倉北(この年だけ小倉から校名を変更)には、前年夏の甲子園で5試合すべて完封し「無失点優勝」という大記録を達成したエース福嶋一雄(のちに早稲田大ー八幡製鉄)がいた。 2回目の同年夏は準決勝まで進むも、延長10回の熱戦の末、湘南にサヨナラ負けした。湘南には1年生でレフトを守る佐々木信也(のちに慶應義塾大ー高橋、大毎など)や、のちに高野連会長となる2番・三塁手の脇村春夫(慶応義塾大ー鐘紡)がいた。この大会では、創部4年目だった湘南が優勝し、初めて優勝旗が神奈川勢にもたらされた。監督の佐々木久男は信也の実父。 高松 000 001 010 0 =2 湘南 000 110 000 1x=3 雨が降る中、湘南は一死後、3番・根本が二塁打で出塁、その後に安打と四球で一死満塁とすると6番・宝性が三遊間を抜ける適時打を放ち、2試合連続のサヨナラ勝ちを決めた。高松一はエース北村-小原の継投策も勝利につながらなかった。 ※なお、この大会から相田暢一さんが甲子園の審判員となり、2試合の球審を務めた。 3回目は昭和26年夏。戦時中に供出された甲子園球場の「鉄傘」が、アルミ製の銀傘で復活した。高松一は、初戦で秋山登(のちに明治大-大洋)と土井淳(のちに明治大-大洋)のバッテリーがいる岡山東(初出場)にスコア12-3で大勝した。 岡山 100 020 000 = 3 高松 007 400 10x =12 この試合、高松一打線は制球のままならない秋山を捕らえて序盤に大量得点し、7回には4番・中西が左中間にランニング本塁打を放ち、ダメ押しした。その後、福島商、芦屋を破り準決勝に駒を進めるも、平安にスコア3-4で惜敗した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.07.09 09:13:21
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