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カテゴリ:昭和期・転向文学
『如何なる星の下に』高見順(新潮文庫) この高見順という作家は文学史的にはどんな位置づけになるんですかね。 ちょっと調べてみたんですが、太宰治より二つ年上になるんですね。 福井県知事の息子として生まれながら家庭的幸福にはほとんど恵まれず、その後一中一高東大と進学し、典型的エリートコースを歩みながら文学にのめり込み、時あたかも昭和初年、プロレタリア文学執筆から治安維持法違反による検挙、その後の転向と、項目によってアップダウンはあれど、ほぼ完璧に太宰に重なっています。 先日外村繁の小説を読んでみましたが、高見順・太宰治・外村繁は、揃って第一回芥川賞の候補者になり、全員芥川賞は外れました(受賞したのは石川達三)が、その後一時期「三羽がらす」的ブームが起こったそうです。 外村繁は、少し感じが違うような気がしますけれどねー(もっとも僕の読んだのは外村の晩年の作品ひとつだけですが)。 一方、高見順は太宰と並べてみますと、かなり近いものを感じます。 本作について言えば、昭和十年代を舞台に、浅草の売れない踊り子や大衆演芸家達の風俗を描いているゆえといえばそうですが(しかし太宰はこういった群衆劇は実は書きませんでした)、一種崩した文体が、とっても似ているんですね。(作者がしょっちゅう作品に顔を出してアイロニカルに展開を促していきます。太宰のお得意ですね。) えー、あらかじめ申し述べますが、私はやはり太宰治のファンですね。 いえ、昔から薄々、そうじゃないかなーとは思っていたんですがね。 近年、近代日本文学史のおさらいをするなんていうテーマで本を読んでいますと、本当に面白いお話を書き続けてきた作家というのは、明治以降、実は三人しかいないんじゃないかと思うようになってきました。 漱石・谷崎・太宰 ですね。 まー、我ながら、かなり偏見が入ってますが。 ともあれ、それを前提にしまして、さて、太宰治と高見順を見比べようというのですが、うーん、なんか、違うんですよねー。 何というか、描かれていることの「結晶度」といいますか「純度」といいますか、「品」といってしまうと、そんなものでもなさそうですが、とにかく、僕の中では、高見順は太宰の「エピゴーネン」になってしまう。 「エピゴーネン」なんて言い方が悪すぎるのなら、「傘の下に入ってしまう」「山脈の連なりに埋もれてしまう」という感じになっちゃうんですね。 うーん、高見順の悪口を言うつもりはさらさら無いんですがねー。 或いは高見にとっては、太宰と生きた時代を同じにしてしまった不幸があるかもしれません。 太宰のほうが、戦略的で「あくどい」んでしょうけれどもね。 なんか、太宰は、作品のどこかで「時間」を睨んでいるような気がします。(『人間失格』なんかはむしろ余りそうは思わないんですが。)でもそんな意識こそが作品の「矜持」を生み出すと思うんですがねー。 結局、才能の質なんでしょうかね。 私流に言えば、太宰治は片や近代日本文学史のベストスリーですから。 ということで、この作品は、健気で愛らしくはありましたが、その健気さの表し方の戦略において、太宰に一歩先を譲るような気が、残念ながら私には致しました。 参考までにタイトルですが、これは高山樗牛の章句によっているそうです。こんなんです。 「如何なる星の下に生まれけむ我は世にも心弱きものなるかな」 ねっ。 こんなタイトルをそのまま付けるんだから、計算高い太宰に比べると、ほとんど無防備のような危うさを感じますでしょう。 というところで、今回は以上。 /font> にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.07.15 06:21:04
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