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カテゴリ:昭和期・歴史小説
先日、クラシックの音楽会に行って来ました。 仕事につき始めて、別に意志したわけではありませんが次第に遠ざかっていた音楽鑑賞を、数年前からほぼ20年ぶりに再開しました。 たまたま時を同じくして、手近な所にクラシック音楽を中心とするホールができたこともあって、コンサートには年に20回ほど、CDについては、1000枚を越えると売りに行く(置くところがない)ということを繰り返しています。 さてこの度聴いた曲は、ブラームスの「交響曲第4番」でした。 この曲を聴きながら、私は、いつになくいろんなことを考えてしまいました。(ということは、やはりとてもよい演奏だったのだと思います。) この曲は、ブラームスが52才の時に作られた曲であります。(以下、ブラームスについてのいくつかの書籍を参照しながらの文です)。 このブラームスという男が、「クソ真面目な」男であります。 いえ、惚れっぽい臆病者であったという説もないわけではないですが、少々思いこみある見方ですが、そんな愚直な真面目一本の男が今52歳になっていると考えてみます。 それなりの有名人ではありますが(かなりの有名人?)、今まで充分に満たされた人生を過ごしてきたわけではありません。誹謗中傷をするようなライバルも多いし、例えば女性関係一つを取っても、なかなか意のままの半生をとても送れていません。結局、ブラームスは生涯独身でありました。 数々の私生活上の、また芸術上の重みをひたすら背負い続けてきた、孤独で寡黙な男がいよいよ迎えた人生の晩秋の季節。 木々の葉はすでに色付き、あるいは朽ちてしまっている。 そんな中をうつむきかげんでぼそぼそと歩く一人の男。 この交響曲第4番には、そんな哀愁のイメージがそのまま現れています。 そしてこのブラームスの姿に年齢が重なりつつある私は、いつになくひどく感情移入して、この曲を聴いてしまったわけです。 各楽章ごとに、感情が過多に流れ込んでいくような聴き方をしてしまいました。 最後には「私の人生とは、いったい何だったのだろうか」などと思ってしまうような。 で、結局、いろいろ考えてしまい、実は少々、疲れてしまいました。 さてその後、ブラームスは思いの外に長く余韻を私の中に残し、今回の報告内容にも影響を与えているのですが、僕の中ではもはやブラームスと下記の小説は、切り離せない関係性を持ってしまったのであります。 『ひとびとの跫音・上下』司馬遼太郎(中公文庫) 読み始めて上巻の半ばあたりまでは、変だ、不思議だと、交互に何度もつぶやくように読んできました。 何とも不思議だが、なぜか懐かしい感じのする、しかし、作者に対しては「厚かましい」小説であると、感じ続けていました。 この感情は一言で言うと、こういう事です。 本来、小説とはとても自由度の大きいジャンルのもので、何をどんな書き方をしても許される類のものだとは承知しながらも、しかし、ものには限度があるだろう。(もちろん限度のないのが小説なのかも知れません。であるならば、僕の内部の個人的な指標としてです。) 本当にこんな技巧のない随筆のような文章が小説といえるのかと、感じながら読んでいました。しかし下巻に入って、これは違うなと思い直しました。 この作風は、司馬遼太郎の小説の本道であります。 そもそも司馬氏が、例えば『坂の上の雲』で、この自作ははたして小説と呼べるものかと複数回自問していましたが、対象への接近の仕方は、本作も『坂の上…』も同じではないかと思います。(この作品は『坂の上の雲』の「サイド・ストーリー」です。) そしてこれこそが司馬氏の司馬氏らしい個性ではないか、それは小説というジャンルの懐の深さかなとも思うし、司馬氏の見つけた「鉱脈」であったかとも考えられます。 それは、内容以前のいわば作品の「佇まい」です。 「人間が生まれて死んでいくという情趣」とは、作者自身が書いているこの作品の「テーマ」のひとつですが、例えば小説は、例えば音楽は、それを解釈しない形で、全く何もコメントせずにただ見せるという形で提出することが可能です。 司馬氏はこの作品で、「提出」に徹しています。しかしこの提出に徹する姿勢は、実は『坂の上…』でも同じスタンスではなかったか。 或いはそんな自らの立ち位置に対し、司馬氏は『坂の上…』を書きながら何度か自問したのではなかったか、と。 そして僕は、この提出の「作法」に、本作とブラームスとをリンクしてしまいました。 えー、「人生の秋」であります。 私のフェイバレットな作曲家ブルックナーもとてもいいですが、ひとつブラームスも気合いを入れて聴いてみようかと、ふと感じるような司馬遼太郎の小説でありました。 /font> にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.07.18 08:10:34
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