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カテゴリ:明治期・写実主義
さて、前回の続きです。話題にしていた本はこれです。 『其面影』二葉亭四迷(岩波文庫) この本を読んで、私は大いに感心をしたのですが、同時に大いに混乱もしました。 それは、ひとことでいうと、こんな強烈な才能がなぜ、超一流の文人を作らなかったのかという混乱です。前回はこんな話でした。 まず、作者・二葉亭四迷について考えてみたいと思います。 (1)作者の混乱 これも前回、紹介した本、 『二葉亭四迷の明治四十一年』関川夏央(文春文庫) の導きのもとに進めたいと思います。 関川氏は、二葉亭の人格をいくつか書いていますが、その中から私が特に重要だと思ったのは以下の項目です。(これは『其面影』からも強く感じられました。) (1)実学(経済)への指向 (2)知識人への嫌悪 (3)文学嫌悪 まず(1)ですが、これは早くも『其面影』冒頭の主人公の思いの中に出てきます。 実は近代日本文学に、主人公が経済活動への積極的志向を述べる作品というのは、極めて少ないです。 (現代の経済小説などを除いて、です。あ、『金色夜叉』というのがありましたが、あの主人公は積極的に経済活動を志向するのではなくて、女性に振られた「やけクソ」ですね。ついでに、古典に行きますと、例の「西鶴」がどーんと控えていますね。) 簡単に言うと、「金よりも正義・倫理・愛情」というのが、まー、ふやけたような「日本文学」世界にふさわしいのでありましょうかね。漱石の諸作品なども、尽くこのとらえ方から外れるものではありません。 でも明治時代を遡って点検すれば、その初期においては若者の経済活動への志向は多数派であったはずです。 それはある意味当たり前で、「末は博士か大臣か」の立身出世の世界ですよね。 以前触れた『学問のすすめ』なんてのがその啓蒙書の典型ですね。 しかしいつからか、「文学」にのめり込み始める一群の若者が現れます。 島崎藤村の『桜の実の熟する時』なんかにも、そんな風潮が描かれていますね。 でも、そもそもそんな若者を作り出すきっかけになった作品こそが、四迷の『浮雲』ではなかったか。 ふーむ、だとすれば、四迷は、「司令官の敵前逃亡」ですかね。 (2)の知識人への嫌悪と、(3)の文学嫌悪も、同根といえば同根ですね。 知識人=文学者が、現実の経済生活に恵まれないゆえに経済活動に対して批判的な言動をする。しかしそれは、本当に食うや食わずの生活を送ってはいないからであります。 四迷は、人生の早い時期に、いわゆる「都会的貧民」にかなり接近しております。おそらくはそこで学んだ事が、経済活動の重要さであったのでしょうか。 それに比べると、漱石の生活などにも、「武士は喰わねど高楊枝」的なお気楽さが見られますね。彼は本当の「餓え」を知ることはありませんでした。(もちろん彼だけではありませんが。) では、四迷がその後、一直線に経済活動に専念するかと言えば、それはちっともしないわけですね。それどころか、嫌々ながらも頼まれた小説原稿は、一字一句ゆるがせにせず、そして結果として極めて優れた作品を残しました。 でも、不思議ですねー。 関川氏の作品には、四迷は印刷された自作を読んで、あまりの下手さ加減に絶望したとか、小説執筆を迫られた時、泣きながら抵抗したとか書かれてあります。 結局これは一種の「完全主義者」の悲劇でしょうかね。 そう捉えると、幾つかの混乱の霧が晴れてくるような気がします。 では次に、「作品の混乱」について考えてみたいと思いますが、以下、次回に。 /font> にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.07.24 05:56:51
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