鏡花ばりのドラマツルギー
『役の行者』坪内逍遙(岩波文庫) 元々もの知らずな人間で、いろんなところで顰蹙や嘲笑を買っているんですが、今回も、そんな顛末であります。 さて、冒頭の坪内逍遙であります。今回はこの方に対する、私の日本文学史的無知の話でありますね。 しかし自分で言うのも何ですが、誰に誉められもしないのに(珍しがられたことは何度かあります)、身内ですら読んでくれていないのに(女房は言うまでもなく、娘にまで字ばかりの長文で煩わしいと言われています)、ブログでこうしてしこしこと駄文を弄しているそのおかげもありまして(少し文脈ヘンですか)、「近代日本文学史」の知識については、わたくし、少々自信があったんですね。恥ずかしながら。 坪内逍遙につきましても、岩波文庫の『当世書生気質』を読んで、その読書報告を本ブログに載せております。あまり高い評価ができなかったのが、少々我ながら残念でありましたが、でも、3回分も続けて書きました。 実はその後、同じく岩波文庫の『小説神髄』も買いまして、読もうとしたのですが、うーん、これはちょっと苦しかったですー。 あの擬古文で、評論で、200ページ以上は、ちと辛いです、私としては。 で、これは勘弁して貰いましたが、でも、逍遙は『当世……』を読んだから、まー、もういいだろうと、そのように安易に考えてしまったんですね。 で、この度、神戸の街の古本屋さんに入ったら、たまたま本書が売っていたので買いまして読んでみますと、とっても面白いじゃないか、と。 戯曲については、多分大学時代だったと思うのですが、わたくし少しまとめて読んだ時期があったんですね。 戯曲を読むというのは、少し「癖のある読書」という気がいたしますが、読み慣れるととても面白いですね。名の通りドラマティックな展開の作品が多く、その読書体験はとてもスリリングでありました。 ところが、劇作家としての逍遙の作品は、完璧に私、見落としていました。 そういえば、同じような見落とし方をしていて、最近になって俄然面白いじゃないかと思った作家がいます。幸田露伴、であります。 両者には共通項がありますね。 そう、長寿です。幸田露伴が慶応3年~昭和22年、享年76歳、坪内逍遙が安政6年~昭和10年、享年80歳であります。 これだけ長い間現役としていろんな作品を書いていたら、時代時代でかなりスタイルも変わっただろうし、ある時期に書かれた作品に、まとめて出来不出来があったりしたはずですが(例えば谷崎潤一郎などでも40歳ほどで亡くなっていたら1.5流くらいの作家じゃないですか、谷崎のピークって、中年以降ですよね)、それが後世、文学史の記載になると(まぁ、しかたないことではありましょうが)、一番目立っていた時期だけで紹介されてしまいます。 例えば、「幸田露伴→『五重塔』『風流仏』」みたいに。 逍遙の『当世……』とか『小説神髄』なんかも、そうなんでしょうね。落ちているところはいっぱいある、と。 今回、初めて逍遙の戯曲を読んで、私はびっくりしました。 とっても面白いんですね。取り上げたお話が怪異潭であるせいで「物の怪」の類が出てきて、まるで泉鏡花ばりであります。 実際私は、読みながら『天守物語』とか『夜叉ヶ池』なんかを何度も連想していました。 ドラマツルギーが、鏡花ばりに素晴らしい。台詞回しが、鏡花ばりに素晴らしい。 例えばこんな感じです。女怪・(略)……おお、だまされたわ? だまされたわ? 何の何の、 それがせにやならぬこと? みんな臆病な人間めが強い者を防ぐ 為、おのが身を庇ふために、猿知恵で工夫し出した自儘の掟ぢや。 おお、だまされたわ? だまされたわ? おろかにも、善い神、 正しい神、直しい神と、取るにも足らん人間に拝まれたといふ未 練気があつたりやこそ、憎い憎いと思うても、思ひ切つたことを 能うせなんだ……悔しいと思うても卑怯いことや残酷いことを能 うせなんだ。……おお、おろかや! おろかや! 迷うてゐた! 迷うてゐた! ……善や慈悲は、自分の都合で人間めが築きをつ た狭い狭い脆い脆い桟橋ぢやに! 廣大無邊な、暗の夜の沙漠の やうな魔界には、道もない、涯もない。ああ、なぜおれは魔王に ならうとは思はなんだぞ? 天下天下、我れ以上に何物もない魔 王になれば…… 考えれば、坪内逍遙という人は「シェイクスピア全集」の翻訳をなさった方ですね。 自前の戯曲を書いても十分素晴らしいことは、想像できたはずであります。 というわけで、今回も大いに反省させられた読書ではありましたが、それとは別に、とっても楽しい時間を持つことのできた読書でもありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村