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カテゴリ:昭和期・昭和十年代
『老妓抄』岡本かの子(新潮文庫) 上記小説の読書報告の前回の続きであります。 前回は、この小説の文章の魅力に、ひたすら私は感心をしていました。 極めて「粋」な文体です。しかし、この「江戸前」の文章の歯切れの良さとは、いったい何なんでしょうね。 そもそもそんなものは、本当にあるんでしょうか。 そこで私が考えたのは、この「江戸前」の歯切れの良い文章に並び立つものがあるとすれば、それは、関西系の粘っこい文章じゃないかということでした。 その鼻祖は、私はよく知らないながら、やはり井原西鶴ですかね。 その後この系譜は、前回も取り上げた織田作之助とか野坂昭如とか、最近の人ならなんといっても町田康でしょうか、その辺に繋がって来るんじゃないですかね。町田氏の文体も、極めて関西的でユニークです。 関西人の場合は、どうしてこうなっちゃうんでしょうね。 恥ずかしながら、例えば私でも、このくねくねとのたくった粘っこい文は、どちらかといえば「タイプ」です。下手くそながらも、少しは書けそうな気がします。 一方、例えば東京人である谷崎潤一郎は、関西に移住して後、関西に芸術的新天地を見つけ、いかにも「関西的」な息の長い文で、『盲目物語』や『春琴抄』といった名作を書きました。しかしその文体は、息は長くはあっても、「粘っこい」感じはしません。 うーん、不思議ですねー。 関西人がそうなんだから、やはり、「江戸前」の文章も、あるのかも知れませんね。 しかし、今思ったのですが、この文体の違いは、結局、物事を認識する際の距離の取り方ではないか、と。 つまり、「江戸前」の文体のポイントとは、「突っ放し」? うーん、ちょっと、考察しきれないところに入ってしまいましたので、とりあえず、ペンディングします。 さらなる研鑽に大いに励んで(ほんまかいな)、またご報告申し上げたいと思います。 さて、この新潮文庫の短編集には9つの短編が入っていますが、大きく二つのグループに分かれそうです。 一つは、生前発表のグループ。 もう一つは死後発表のグループです。 読みながら、何となく質の違う、二種類のものがあることを感じていたんですが、読み終えてから作者について少し調べました。 すると、まずこの作家の小説家としての「実働」は、わずか3年だということを知りました。 これだけ筆力のある作家が、なぜ一般的な「大成」をしなかったのか不思議に思っていたんですが、なるほど実質的な小説家デビューの翌々年になくなってしまったのでは、むべなるかなであります。 (かの子は、最初は歌人として、一定名を成していたようです。その後、文壇に認められた作品は、芥川龍之介をモデルとした「鶴は病みき」であります。) というわけで、「生前発表グループ」作品は、「老妓抄」を始め、極めて切れ味がいいです。名品です。 しかし一方、「死後発表グループ」作品は、いわゆる習作の名残が感じられ、どこか「いびつ」な感じがします。 (えー、「死後発表グループ」作品という言い方は、正確なのか少し不安があります。死後発表であっても、これは「習作」ではないかと感じ得る作品群ということです。) 例えば「食魔」という天才的料理家を主人公とする作品がありますが、これはもっと面白くなってもいいものが、そうならずに「歪な」展開に終わっているように感じます。 ただ、それが作者の中で吹っ切れたとき、「生前発表グループ」作品が生まれたんでしょうね。 岩波文庫の解説文によると、その時かの子は、夫・岡本一平に 「もう大丈夫、ぱぱも安心して」と、言ったということです。 早すぎた死が、いかにも痛ましいですね。 では、今回はこの辺で。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 /font> にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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