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2009.08.11
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カテゴリ:昭和期・歴史小説

  『魔群の通過』山田風太郎(文春文庫)

 えー、今回この作品を取り上げることについては、完全に私事ではありますが、わたくし、大いに迷いました。

 本ブログの基本的コンセプトは(あくまで「基本的」であります)、

 「作品選定の基準は、高校の『近代日本文学史』の教科書に準拠する。」
 (『近代日本文学史』の教科書は、ブックオフで105円で買ってくる。)


ってのがありましたんですね(って、私がそう作った)。

 歴史小説に対する「日本文学史」の差別的評価の低さについては、以前より何度か述べてきましたが、それでも私も、山田風太郎氏までを射程に入れての「歴史小説」とは考えていませんでした。

 下記にもありますように、山田氏の小説は私にとってフェイヴァレットであり、全くその価値を貶めるつもりはありません。

 ただ、基本的に山田氏の小説は、「日本文学史」などという一種の「差別選別機構」とは全く接点を持つことのないフィールドで、巨大に屹立していると理解してきました。

 まー、もう少し簡単に言えば、この人の小説を取り上げたら、このブログに於いて小説なら何でもアリかな、と思ったということです。

 そんなことはもちろん極小さな私事であり、そうなってどこが悪いのかというようなことではありますが、ともかく、私と致しましては、少し、悩みました。

 で、結局、山田氏の小説の中では、比較的人気のなさそうな、地味ーーなやつで解決を図ろうと、「三方一両損」でいこうと。(なんのことやら、さっぱりわかりませんねー。)
 というわけで冒頭の作品であります。

 さて、繰り返しますが、山田風太郎の小説は僕にとってフェイヴァレットであります。
 ただし、明治小説シリーズと、あと何作か(一連の室町もの、『人間臨終図巻』など)がその対象ですが。

 評判のいい「忍法帖」のシリーズは、読んでいる時は確かにとても面白いのだけど、どうも僕にとっては後味がヨロシクナイ。僕には、あまりに殺伐としているように感じられます。
 で、この小説の読後感にも、その殺伐さがあります。

 舞台は、幕末の水戸藩。いや、主な舞台が水戸ということです。
 なぜなら、主人公ら水戸天狗党一団1000名ほどの水戸から京都までの「長征」が、ドラマの主筋であるからです。

 そもそも、水戸について、僕が何となく知っている歴史的事項と言えば、まぁ水戸光圀から始まって『大日本史』編纂、幕末は水戸の烈公徳川斉昭そして15代将軍慶喜の出自くらいでありしょうか。
 
 えー、例によって、話は逸脱するんですが、私の友人に歴史小説ファンがいまして、この、水戸黄門とか、『大日本史』とか、「水戸学」なんかについて、ちょっと水を向けてみたんですね。
 僕としては、ちょっとだけ水を向けたつもりだったのに、彼は全く「水を得た魚」の様に、鼻の穴を広げて、以下のごとく、延々と語り出しました。(こんな友人も、うーー、難儀だ。)

 ……そもそも水戸藩は、御三家の中でも将軍家ともっとも血縁関係の薄い藩であった。水戸黄門の『大日本史』は、その編纂に250年あまりを費やしたにもかかわらず、現在では全く価値のない史書となっている。我が輩も、ただの一度も見たことも(いや大学図書館の奥の方で見たことはあるか)、開いたこともない。
 なぜ、価値がないかといえば、その史観がたいしたことないからである。ただこの書の主張として有名なのは、南朝が正統であるということである。他の歴史書でいえば、新井白石の『読史余論』なんぞは、今の徳川の代にいたるまで、八回の転換期があったとかいう点に非常におもしろみがある。だから、今でも価値があるのである。加えて『大日本史』の無価値さについて、例えば新しい史料が載せてあるかといえば、これもない。だから新し味にもかけるのである。
 しかし水戸藩の尊王思想は、幕府を否定するものではない。元来、朝廷と幕府は対立するものではないのである。確かに、鎌倉幕府は、承久の乱で朝廷と戦った。だが、あれは西国政権と東国政権の戦いというもの。その後、室町に至り朝廷と武家は融合がはかられ、戦国期を経過して、両者は対立するのもではなくなったのである。それは、朝廷に、政権担当意欲がなくなったし、世間もそうは見なかったということでもある。
 例えば、現在の天皇を崇拝し信仰することと、自民党政権を批判することに、全く論理的な連続性がないのと同じである。むしろ、尊王論が出てくれば、幕府にとっても好都合という側面があった。幕末期においても、尊王攘夷は流行するが、それは直ぐには討幕には結びつかなかったのである。あの新撰組も尊王の志士ではなかったかな。討幕ということが言われるのは、薩摩長州が結びついて、政権を幕府から奪おうとした時、1867年ごろからではなかったかと思うのであるのであーる。そもそも天皇のもと幕府から薩長が政権を奪った明治維新について……なんちゃらかんちゃら、かんちゃらなんちゃら、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ、あーー、やかましいやかましいやかましやかましやかましやかまし……。


 えー、次回に続きます。


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Last updated  2009.08.11 06:29:59
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