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カテゴリ:昭和期・転向文学
『歌のわかれ』中野重治(新潮文庫) この作者は、どうなんでしょうか。むしろ詩人としての方が有名な方・評価の高い方ではないでしょうか。(まちがっているかしら。) 確か高校の国語の教科書に、よく覚えていませんが、「もうお赤飯を食べてはいけない」というような詩が、あったような、なかったような、あれ? 「お赤飯を食べてはいけない」って、変すぎますね。 なんか、間違っている気がします。 ……、えー、今、調べてみたのですが、僕がかつて教科書で読んだと記憶している詩は、多分『歌』という詩で、「お赤飯喰うな」ではなくて、 おまえは歌うな おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな というプロレタリア詩でありました。 「ひよわなもの」「うそうそとしたもの」を歌わずに「胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところを歌え」という、力強いプロレタリアートの詩でありました。 (しかしまー、よーも、えー加減な記憶をしていたものですなー、私って。ぜーんぜん、違っているではありませんかー。でもこんなことって、私の人生に日常茶飯事なんです。すみません。) さて今回、僕は初めてこの人の小説を読んだんですが、それがなかなかに「厳しい」読書でありました。 上記に、「プロレタリア詩」と書きましたが、この小説は、小説の「主義・流派」でいえば、「転向小説」になるんですね。 大正時代中盤から「プロレタリア文学」がわっと流行り始め、昭和に入ってそれが政府により弾圧されます。 それは、少し前にブームになった『蟹工船』の作者、小林多喜二の惨殺をピークとし、そして多くのプロレタリア作家の、「共産主義」からの「転向」へ。 その後日本は、一気に、大陸での事変・太平洋戦争→文学の不毛時代へと突き進んでいきます。 その「転向小説」ですね。 この本の中に入ってあった『村の家』なんかは、「転向小説」の名作といわれています。 えー、『村の家』は、確かにわりと面白く、きっちりしっかりと書かれていました。 「転向小説の名作」。うん。認めましょう。 しかし、あとが、うーん、なんというか、どうなんでしょうか。 確か、佐多稲子の小説を読んだ時にも強烈に感じましたが(佐多稲子も一応「転向小説」作家ですかね)、作者はすっごい真面目に一生懸命書いていらっしゃるんですね。 なんと言っても「転向」経験を語るのでありますから、生半可なものではありません。 それは読んでいて、こちらにもひしひしと伝わってきます。 でもね、読んでいてね、不謹慎にも、ついこんな事を思ってしまうんですね。 「やっば、漱石って、すごいよなー」 漱石の代わりに、太宰治でもいいんです。 というより、太宰の方がいいかも知れません。というのは、太宰の小説も、一種の「転向小説」だからですね。 太宰治と中野重治の作品を比べてみますと(こんな比べ方はちょっと意味がないのかも知れませんが)、太宰・漱石が、何とも他者に比べようのない「面白いお話作りの天才」であることが、ありありと分かります。 漱石も太宰も読んでいて、まず第一に話が圧倒的に面白い。 それに比べると、……うーん、真面目なだけでは、ダメなんだなー、と。 というわけで、なかなかに「厳しい」小説を読んでいました。 「近代日本文学史上のメジャーのマイナーな小説を読む」なんてテーマで読んでいるから、こんな事になるのはやむを得ないのかも知れませんが、しかしなんか、改めてすごく「日本文学って何やねん」って、考えさせられてしまいます。うーん。 というわけで今回は以上。では。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 /font> にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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