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カテゴリ:昭和期・他の芸術派
『死者の書・身毒丸』折口信夫(中公文庫) えー、この小説があることは以前より知っていました。 一応、大学で国文学を専攻していたもので、古典についてレポートなりを出す時に、まー、わりとお世話になったような記憶があります。 民俗学の二巨頭ぐらいですかね、引用出典への批判をあまり要求されなかったのは。 他の研究者からの引用の場合は、その研究者(研究論文)そのものへのさらなる吟味・批判が要求されることがあって、大いに難儀をしたものです。 で、「困ったときの折口頼み」と。 そんな折口信夫が書いた「奇書」ということで、この本は以前より手にしたこともありましたし、ぱらぱらと覗いてもいました。 そして、私はどうしたかというと、逃げていたんですね。 だって、ぱらぱらと読んだだけでも、とてもわかりそうな気がしなかったですもの。 そして幸いなことに、私はずっと忘れたままでいられたのに、先日本屋さんにいけば、あるじゃないですか。いえ、中公文庫にあることも、実は知っていたんです。 とにかく、じーーと睨みながら、「もう逃げられぬ」と観念して、買いました。 そして、読みました。 上に「奇書」と書きましたが、「奇書」とは、そもそも文学史が評価しきれない作品のことですね。以前にも見たように、文学史は、時代から隔絶して単独に一つの世界を作っているような作品(作者)については、うまく評価できないんですね。 例えば、漱石なんかでも、考えようによれば、際どいところで「奇書」から逃れているような気がします。漱石作品の深み・高みは、時代を大きく越えて屹立しています。 それが「奇書」扱いから逃れたのは、もちろん、作品に描かれている内容の広い普遍性、という理由もありましょうが、あれは、えー、「ぶっちゃけたところ」、鴎外と、二人いたせいでだいぶ「助かって」いるようなところありませんかね。 両巨頭で、一つの文学的流派を作っているような形ですね。 実際二人いれば、とりあえず「流派」がひとつ作れますものね。 武者小路・志賀の「白樺派」しかり、川端・横光の「新感覚派」しかり、そしてまた谷崎・永井の「耽美主義」しかりですね。 そういう風に考えると、柳田国男兄が小説を書かなかったせいじゃないか、『死者の書』が「奇書」紛い扱いになったのは。 しかし一方で、我々読者の側から考えれば、「奇書」に対する興味というものは、明らかにありますよね。あれはいったい何なんでしょうか。 うーん、「怖いもの見たさ」ですかね。 一つの想像力の「極北」を覗きたいという、やはり「怖いもの見たさ」だと思います。 で、さて、『死者の書』ですが、この中公文庫版では、三作品が入っておりまして、二つめの『山越しの阿弥陀像の画因』というエッセイ(だと思いますが)に、一応作者による『死者の書』の解題が書いてあることになっています。 「あることになっています」という持って回った書き方をしているのは、このエッセイも、わたくし「よーわからん」からです。 しかし、こうしてわからん文章を続けて読んでいますと、なんか我が身の無知さ加減が実感されて、つくづく悲しいものがありますねー。 ともあれ、暗号を解読するように、筆者による解題をまとめますと、以下のようになります。(全然はずれってことは、たぶんないように思うんですが、ひょっとしたらかなり違っているかもしれません。) 古来、中国より伝来した仏教が日本化していった指標の一つとして、「山越しの阿弥陀像」というものがあるそうです(作品中にその写真が数枚入っています)。文字通り、二つの山の間から、主に上半身(腰あたりより上)を見せている阿弥陀像です。 なぜこんな姿の仏画があるのかについて、そこには日本古来の「日想観」という夕陽への崇拝があり、それは御仏が西の海に向かって波間を進みゆく構図でもあります。 そして、その姿を擬したものとして「山越しの阿弥陀像」があるのではないか、ということであります。 そんな神々しいお姿を、「藤原南家の郎女(いらつめ)」という女主人公が拝む心情にきりきりと的を絞って、まるでアンドレ・ブルトンの「自動書記」の様に、無意識の導くままに書いたというのが『死者の書』である、と。 うーん、わかるような、わからんような、……。 というわけで、結局、民俗学の本ってのは、こんな感覚ですよね。 要するに、「人と人以外のものとの共棲感覚」とでもいいますか。 時代を太古におき、舞台を奈良とし、文体を古文体に模することで、この作品はその感覚を可能にしていると思えましょう。 えー、力及ばず、まー、「惨敗」ということで、今回はどうもすみません。以上。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 /font> にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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