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2020.04.28
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  『山月記・李陵』中島敦(岩波文庫)

 「山月記」についての報告の4回目になります。
 今回は、虎になった理由「その三」、私がこの度の「勉強」で、一番面白かったところであります。

(1)李徴の説く虎になった理由・その三
    「妻子のことよりも己の詩業を気にかける……自嘲(癖)」

 作品終盤にわずか数行で書かれている、妻子と詩業についての李徴の呟きのような部分です。(「昔の青年李徴の自嘲癖」という表現が作品前半部にあります。)
 前回報告しました「虎になった理由・その二」に比較して、書かれた分量は比すべくもない少なさです。

 しかし「理由・その二」の多くの分析は、いわば「私小説的自我」論を作品分析にあてはめたもので、これがそのまま「山月記」において有効かの疑問はあります。(前々回に指摘しましたラストシーンの印象的な虎の咆哮イメージは捕えきれません。)
 そこで、この「理由・その三」を詳しく見てみます。


 その前に「理由・その一」と「その二」を再確認します。
 実は、この二つの理由はセットであるとも考えられます。つまり、「その二」の性情を運命論的に持ち合わせた(「その一」)と、考えることであります。

 しかしそうすると、さらにこのように考えられないでしょうか。

 ①もしも本当に「その一」が「化虎」の原因だと納得できるなら、
  李徴の性情(「その二」)には責任はない。つまり「その二」は
  「化虎」の理由とはならない。
 ②しかし李徴はそう考え切れなかったから、自らの性情が理由で
  あるという「その二」の解釈を生み出し、そして苦しんでいる。

 なぜ「その二」のような理由を考え出したのでしょうか、それこそが「その三」のもう一つの側面ではないでしょうか。

 つまり、「その一」と「その二」が併存しているのは、「その一」の考えを徹底させなかった彼の気の弱さゆえであり、それが作品終盤に至って呟きとして現れた彼の妻子へのヒューマニズムの正体である、と。(彼は「妻子のために節を屈して」再就職しています。)

 しかし実は、このヒューマニズムこそが、第一級の表現者の自己完成にとって障害であることは、名作「名人伝」の人を食ったような諧謔性あるストーリーの中に明らかであります。

 (弓の名人を目指す紀昌は、妻など全く眼中になく、師匠も射殺そうとし、さらに何年も一人勝手に修行を続ける非人間的な徹底男であり、「名人伝」は志を貫き通した男を描く「山月記」の裏面の物語です。)

 だとすると、「理由・その三」は、従来言われている「飢え凍えようとする」「妻子のことよりも己の詩業を気にかける」李徴の愛や人間性の欠如のせいではありません。
 そういった解釈とは全く逆の、ついそのように自嘲してしまう李徴の気の弱さ・信念の弱さ・不徹底さゆえではなかったでしょうか。

 (本文を少し読み込めばわかりますが、虎になった李徴は、その虎の姿のままで作品舞台の「商於」から「故山かく略」まで、少なくとも一回以上妻子の様子を見に行っています。そこまで妻子の事を気にかける李徴です。)

 前回に書いた、詩人になり切ることをまるで恐れているようにも見える李徴の(そして20代の中島の)不可解な行動の正体は、まさにこれではなかったでしょうか。(優れた詩人=表現者になるためには人間性を捨てねばならないと言う認識への恐怖。)

 別の角度からもう一点の分析を付け加えてみます。
 「山月記」は、『古潭』という総題で書かれた4つの短編小説の中の一作です。
 この『古潭』4作の共通点は、すべて「文字・言葉」をめぐって起こる怪奇話だということです。
 そしてそこに描かれている「文字・言葉」の姿は、①永遠のもの、②人智を越え人間(性)を破壊するものであります。

 言い換えれば、『古潭』4編の物語は、永遠の力を持つ「文字・言葉」に憧れ取り憑かれた者たちが、人生を破滅させてしまう話ということができます。
 中島敦流の「イカロス失墜」の物語といえましょう。

 「山月記」に戻ってまとめると、李徴が虎になった理由のその三とは、詩業にとりつかれながら、そのために不可避である「非人情」に徹しきれなかった男の性情であったといえるでしょう。

(2)ラストシーン……山月に向かって咆哮する虎

 さて、以上、李徴が虎になった理由を中心に見てきましたが、依然残る疑問があります。
 それは、「山月記」の大きな魅力の一つである作品のラストシーンの解釈です。
 虎を「あさましい」「醜悪」な姿と書き続けながらの小説最後のこの猛々しい誇らかな虎のイメージは、一体どう考えればいいのでしょうか。

 結局の所、作品最後に李徴の姿がこのように描かれることについては、明らかに筆者の感傷性、つまり「甘さ」があると言えそうです。
 それについては、すでに指摘があります。「虎などという高貴な動物を持ち出してくるのは、まだ己を大事にしすぎている証拠ではないか。」(古屋健三)

 この指摘を認めた上で、しかし、もしこの変身が虎でなかったとすれば、それはほとんど話にならないものになりはしないでしょうか。例えば梶井基次郎の「檸檬」がミカンでもバナナでもだめなように。また、芥川龍之介の「蜜柑」が、やはり蜜柑でなければいけないのと同じではないでしょうか。

 そもそも「山月記」のテーマは、「生活と芸術の背反」とまとめることもできます。しかしそれは、近代文学のテーマとしては決して珍しくはありません。
 例えば田山花袋の『田舎教師』は、文学をめざしながら進学も上京もできず片田舎で煩悶の内に生涯を終えてしまう青年の話です。これを描くに当たって花袋は主人公(林清三)の凡庸性・感傷性を執拗に描きつつ、同時にそれに大きな共感を重ね合わせています。
 それを花袋の感傷性と言い切ってしまうと、この文学作品は成立しません。この感傷性には普遍性があるのです。

 「虎」に一種の感傷性があることは認めつつ、この感傷性は決して低俗なものではありません。むしろ、荒野に吼える一匹の虎の姿で描かれたこの感傷性こそが、読者にとって優れた芸術作品が本質的に持つ大きなカタルシスの役目を果たしています。

 あるいは、このようにも考えられます。
 一人の人生に挫折した男を、東洋人・日本人には格別な伝統のあるイメージを持つ虎の姿にかぶせてやることによって、彼の苦悩の大きさ、真実さ、美しさを表現したのた、と。
 たとえそれが文学の詐術であっても、「山月記」の虎とは、李徴が人生で成し遂げたものの姿ではなく、成し得なかったものの、そして彼の苦悩の姿のイメージに他ならないのではないでしょうか。


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Last updated  2020.04.28 09:29:46
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