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カテゴリ:明治期・反自然鴎外
『雁』森鴎外(新潮文庫) 上記作品の読書報告の後半であります。 前回の最後ですでに、画期的な『雁』論が提出されましたが、画期的すぎて誰も相手にしてくれないような気もします。(詳細は前回の拙ブログを。) えー、とりあえず、もう少し進めてみます。 そもそも前回最後のような「画期的」な一文がうまれた切っ掛けはこの疑問からでした。 (1)鴎外は、どんな読者を想定してこの小説を書いたのか。 (2)鴎外は、そもそもなぜこんな「恋愛小説」を書いたのか。 これはやはり気になりますねー。 例えば本作は、「僕」という一人称で書き出されていますが、この一人称は、作品の視点としてはほとんど「破綻」しているんですね。 そもそも「僕」の出てくる場面が圧倒的に少ないし、途中の、まさにこの作品の重点部が、論理的には「僕」には分かりようのない事実(人物心理)の描写だからであります。 にもかかわらず、この「一人称」は、まるで「飛び道具」のように、圧倒的にすばらしい効果を、作品にもたらしているとしか言いようがありません。 例えば「鯖の味噌煮」のエピソード、これは何というのでしょうか、「小憎らしい」ほどの「芸」ですね。 それに加えて、というか、こちらが先行するんでしょうが、文章の完璧なること。 それは、「お玉」の出てくるシーンのみならず(というよりも、「お玉」のシーン以上に)、高利貸し末造の妻などを描いて光彩陸離たるものがあります。例えばこんな場面。 「どうするにも及ばないのだ。お前が人が好いもんだから、人に焚き附けられたのだ。妾だの、囲物だのって、誰がそんな事を言ったのだい」こう云いながら、末造はこわれた丸髷のぶるぶる震えているのを見て、醜い女はなぜ似合わない丸髷を結いたがるものだろうと、気楽な問題を考えた。そして丸髷の震動が次第に細かく刻むようになると同時に、どの子供にも十分の食料を供給した、大きい乳房が、懐炉を抱いたように水落の辺に押し附けられるのを末造は感じながら、「誰が言ったのだ」と繰り返した。 躍動感溢れる、瑞々しい書きぶりですね。 一体に鴎外は、「硬い」文章を書きそうな先入観がありますが、女性の肉体に関わる表現は、漱石よりも遙かに艶っぽいですね。 (漱石の描く女性の艶っぽさの最右翼といえば、『それから』の三千代が、ユリの生けてある水盤の水を手で掬って飲むところくらいですかね。) 一方鴎外は、そもそもデビュー作『舞姫』において、泣き崩れる少女のうなじの色っぽさに耐えきれず、思わず肉体関係を結んでしまう主人公を描いていますもんねー。 ともあれ、小説作法的にはタブー視される物が、鴎外においては、すばらしい効果を生みだしている事を確認したのですが、にもかかわらず、なぜ鴎外がこんな「恋愛小説」を書いたのかについては、いっこうに分かりませんでした。 しかし作品中盤、僕は思わず「あっ」と声を挙げる個所に出会いました。ここです。 この時からお玉は自分で自分の言ったりしたりする事を窃に観察するようになって、末造が来てもこれまでのように蟠まりのない直情で接せずに、意識してもてなすようになった。その間別の本心があって、体を離れて傍へ退いて見ている。そしてその本心は末造をも、末造の自由になっている自分をも嘲笑っている。お玉はそれに始て気が附いた時ぞっとした。しかし時が立つと共に、お玉は慣れて、自分の心はそうなくてはならぬもののように感じて来た。 これってまるで、フローベルと『ボヴァリー夫人』の関係じゃないですか。 僕は、かつて鴎外が描いた、登場人物と作者の心情が重なっている一連の作品を思い出しました。例えばこれ。 「君はぐんぐん仕事を捗らせるが、どうもはたで見ていると、冗談にしているようでならない。」 「そんな事はないよ」と、木村は豁然として答えた。 木村が人にこんな事を言われるのは何遍だか知れない。此男の表情、言語、挙動は人にこういう詞を催促していると云っても好い。役所でも先代の課長は不真面目な男だと云って、ひどく嫌った。文壇では批評家が真剣でないと云って、けなしている。一度妻を持って、不幸にして別れたが、平生何かの機会で衝突する度に、「あなたはわたしを茶かしてばかし入らっしゃる」と云うのが、其細君の非難の主たるものであった。 木村の心持には真剣も木刀もないのであるが、あらゆる仕事に対する「遊び」の心持が、ノラでない細君にも、人形にせられ、おもちゃにせられる不愉快を感じさせたのであろう。 (『あそび』) どうです。この二つの表現は、まるで瓜二つですよね。 フローベルが「ボヴァリー夫人は私だ」といったように、「お玉」は鴎外自身の投影だったわけです。 つまり、高利貸しの妾・無縁坂の「お玉」とは、実は森鴎外その人だったのであります。 うーん、しかしこの「お玉」論は、これはきっと誰かがすでに言っていそうですね。 僕が今回気が付いたと言うだけで、きっと、先達の業績がありそうです。 ともあれ、『雁』のこの部分を読んだ時に、僕の疑問は氷解しました。 そして僕は、その後、ある意味で「安心」しつつ、一方で少し「がっかり」しつつ、本作品を読んでいこうとしました。 「がっかり」とは、なにか「底の見えた」ものに対するつまらなさとでもいうべき感覚だったろうと思います。 しかし、僕が勝手に「がっかり」しつつ読み続けようとした『雁』は、そんな底の浅いものではなかった事を、最後に申し添えておきます。 ちょうど蛇と小鳥のエピソード(まさに終盤・クライマックスへ通じるエピソード)あたりから、作品は読者をぐんぐんと引っ張っていき、お玉の心情を掌の如くに解き明かしつつ、最後、「雁の死」を過ぎると、今度は打って変わって、お玉を突っ放すようにして終わっていきます。そのラストシーンの哀切さ。全く見事としかいい様のないものでありました。 うーん、やはり、鴎外、文豪でありますねー。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 /font> にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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