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カテゴリ:明治期・浪漫主義
『多情多恨』尾崎紅葉(岩波文庫) 上記小説の読書報告の後半であります。 前回の拙ブログにおいて、私は、とても真摯に反省を致しました。(全く、反省ばかりの人生で、汗顔の至ったり来たりです。) で、何を反省したかと申しますと、 「自分は明治初期の文学者を侮っていたんじゃないか。」 と言うことであります。 坪内逍遙や二葉亭四迷などの小説を、さほど多くではありませんが、読み、そして感心・感動していたにもかかわらず、明治初期の文学者について、「まだ十分な表現力すら手に入れていない人々」くらいに思って、侮ってはいなかったか、と。 (ちょっとこれは、我ながら書きすぎですね。いくら何でも、そんなに侮ってはいません。) とにかく、激しく真摯に反省した私は、今回冒頭の小説を読んで、かなり感心しました。それは特に、この二点においてでした。 (1)「言文一致体」の、ほぼ完璧なること。 (2)「心理描写」へのこだわりの、時代を遙かに先駆けていること。 まず(1)についての報告でありますが、実際の所、本書の文体は、例えば漱石の「前期三部作」あたりに紛れ込ませても、私はほとんど分からないと考えます。 それは、同時に(2)の「心理描写」の故とも思えますが、それくらいに遜色のない、見事に「こなれた」言文一致体であります。 あわせて、作品全体に漂う「ユーモア」は、尾崎紅葉が、間違いなく文豪・二葉亭四迷や夏目漱石の眷族であることを感じさせるものです。 例えばこんな表現。 (後で詳しく述べますが、主人公・柳之助は最愛の妻を病気でなくし、絶望のまっただ中にいます。そこへ友人・葉山が見舞いに来て、彼を引っ張り出し、自分の家へと連れて行きます。そんなシーンです。) 「それじやお客様は私が引受けるから、お前様は御馳走の方の周旋を、此処は宜しい、御随意に御引取なさい。」 細君は一礼して起つて了ふ。柳之助は跡を見送つて、吻と一息吐いたと云ふ躰で、主の方に向直ると、吹差しの煙草を把つて、一口燻らして、まじまじと葉山の顔を視ている。 「何をぼんやりしてゐるのだ。」 「君の所には細君が居る。」 「何を下らない事を……。」 と言ひさして急に笑ひながら、 「あれもどうせ今に死ぬのさ!」 これは、巧まざるユーモアではないですよね。 筆者が充分計算したユーモアでしょう。 次に(2)「心理描写」へのこだわりでありますが、作者がどれほど登場人物の心理描写に筆を費やしているかは、はっきり言って、少しあきれるばかりであります。 どうあきれるばかりかと言えば、上述しましたように、主人公・鷲見柳之助(大学の講師といった職業でしょうか、インテリゲンチャです。)は、最愛の妻を病気で失います。本書の開巻冒頭が次の一文です。 「鷲見柳之助は其妻を亡つてはや二七日になる。」 ここから始まって、前編すべて、岩波文庫によりますと194ページまで、ずっと、ずっと、ずっとずうーーーーーーーーーっと延々と、「死んだ女房が恋しい」としか書いてありません。 これは何というか、えー、やはり少し、あきれますでしょ。 死んだ女房恋しいしか書いていない200ページ弱というのは、かなり「珍なり」でありますね。 そもそも、そんな「変人」が主人公なんですね。 私もたいがい、いろんな主人公の小説を読んできたつもりではありますが、こういうタイプの主人公もまた大いに「珍なり」であります。 そんな意味においても、本小説は、他に抜きん出た圧倒的なオリジナリティーを誇っているといえましょう。 考えてもみてください。明治初期に(例えば、あの司馬遼太郎の名作『坂の上の雲』の舞台の時代です)、この「女々しさ」の極みのような主人公の設定ですよ。 これは、あきれもしますが、しかし同時に、大いに感心せざるを得ません。 結局、筆者のねらいの一つが、恋女房を失った主人公の、細かな細かな心理の襞を、これでもかと筆にすることであったのでしょう そしてそれは、かなりの程度成功していると思います。 なにより、この200ページほどを退屈させることなく読ませてしまいます。これを、小説的力量と呼ばずして何と呼びましょう。 さらに作品後編(140ページほど)も、ストーリーは、遅々たる歩みしか行いません。筆者はここにおいても、ひたすら登場人物の心理描写に筆を費やします。 そもそもこの心理描写力は、どの程度のものなんでしょうかね。 明治時代の小説家で、心理描写において実力を誇ると言えば、やはり漱石でしょうかね。その漱石に比してどうでしょうか。 うーん、浅学非才な私の力ではいかんとも判断のしようがありません。 ただ、文中、主人公の親友として「葉山」という人物が出てきますが、彼の描かれ方に私は、例えば漱石の『三四郎』の「広田先生」の描かれ方と似たものを感じました。 ということで、本作の「先駆性」を、冒頭の二点について考えてみました。 しかし私があれこれ言うよりも、二葉亭の作品の時も同様でしたが、本小説には、「明治時代初期」という時代に対する「偏見」(持っているのは私だけでしょうか)を遙かに吹き飛ばす、面白さがあります。 後はぜひ、現物にあたってみてください。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 /font> にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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