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カテゴリ:昭和期・新感覚派
『浅草紅団・浅草祭』川端康成(講談社文芸文庫) 川端康成は好きでした。 「好きでした」と過去形で書いてしまったのは、僕の感覚としては、川端康成は今でも好きな作家の中に入っているとは思うものの、では断続的にでも、「川端氏の小説を今でも読んでいるのか」と尋ねられれば、それは、ほぼ、皆無であるからです。 一連の川端作品は、大学時代に、その頃新潮文庫で手に入るものは(たぶん「昔は良かった」式の懐古感覚だとは思いつつ、あの頃の新潮文庫って、川端・谷崎・三島・大江・公房・倉橋・等々、本当に近現代の綺羅星のような「純文学」作品が、一杯出ていたと思うんですが、今でも、基本的にそうなっているんですかねー)、ほぼ読みましたが、今考えてみると、僕は本当に分かっていたんでしょうかねー。 本当に面白かったんでしょうか。 うーん、よく分かりません。 当時、僕が一番好きだった川端作品は、『山の音』だったように覚えています。 しかし『山の音』って、老年期に入ろうとしている主人公の男が、息子の嫁に、微かな「恋心」を抱くっていう作品じゃなかったでしょうか。 そんな老境の微妙な心理が、大学生に分かるのでしょうかね。 でも若者の頭って、わりと柔軟な上に、社会生活に対する基本的な「無責任」さが、良い意味で「アバウトなキャパシティーの広さ」みたいなものに繋がる時もある気がするんですが、こんな分析って、間違っているでしょうか。 さて、冒頭の川端作品であります。 久しぶりの川端康成であります。どれくらい久しぶりかと考えようにも、すでに記憶にないくらいですから、まー、これもアバウトに、二十年ぶり、としておきましょう。 読みながら、類似小説を思い出していたんですが、同作者なら『掌の小説』、他の作者でよいなら稲垣足穂『一千一秒物語』ですかね。 特に足穂作との類似を、非常に感じました。足穂は、同時代人ですからね。 例えば、こんな文章です。 例えば子供役者の歌三郎と歩いていると、弓子はその脣の綺麗過ぎる少年よりも、ずっと男に見える。美しい娘が男の見えた時には、鋭い、そしてこぼれ易い刃物のような憂鬱を、諸君は彼女のうちに感じはしないか。 「和洋ジャズ合奏レヴュウ」という乱調子な見世物が、一九二九年型の浅草だとすると、東京にただ一つ舶来「モダアン」のレヴュウ専門に旗挙げしたカジノ・フォウリイは、地下鉄食堂の尖塔と共に、一九三〇年型の浅草かもしれない。 エロチシズムと、ナンセンスと、スピイドと、時事漫画風なユウモアと、ジャズ・ソングと、女の足と――。 文中に「一九三〇年型の浅草」とありますが、昭和初年の東京であります。 初出がまさに昭和五年(=一九三〇年)の「東京朝日新聞」ですから、リアル・タイムな浅草のルポルタージュ的作品ともなっています。 昭和初年の日本といえば、「百花繚乱」というか「百鬼夜行」というか、近代日本歴史の転換点でした。 あの司馬遼太郎が嫌った昭和初年(司馬氏が『この国のかたち』の中で嫌ったこの期間は、厳密に言うと明治三十八年(1905年)から昭和二十年(1925年)の「四十年間」で、日本歴史上の「異胎」という言葉で、司馬氏は自らの興奮も隠さず、徹底的に嫌っています)であります。 東京の2/3が灰燼に帰し、江戸文化に最後の引導を渡したと言われる大正十二年の関東大震災の後の時代。 破壊はすでに終われども、再生の未だならぬこの時代。 「女工哀史」などに見られる世界恐慌の影響・プロレタリア文学の興隆と、大衆小説の黎明ならびに都市文化の発達、そして中国大陸への泥沼の侵略がじわりじわりと閉塞感を生み出し始める狂い咲きのような「エロ・グロ・ナンセンス」の時代であります。 そしてそこに颯爽と、後に横光利一と組んで『文芸時代』を創刊し、「新感覚派」としてアジテートし始める直前の、まさに才気溢れた若き川端康成の登場です。 実験小説的色合いの濃い文体は、時代を先取りするような「切れ」と「疾走感」に加えて、『掌の小説』などにも見られる「詩性」も充分に感じられ、オーバー・ドライブするリズム感が小気味の良い小説にはなっています。 ただ、そんなショットやカットの羅列に、ストーリーが有機的に絡んできません。 そんな小説も、もちろん「あり」ではありましょうが、ストーリーが大きく前面で動き出さない小説は、やはり片肺飛行の弱さを呈せざるを得ないと、僕は思います。 結局、実験小説の枠内の作品なのでしょうか。 目先が変わり一種の新鮮さが味わえることと、そんな作品の積み重ねの後に大きな結実が来るかも知れぬと言う期待はあっても(そしてその期待は、川端氏に於いては見事に叶えられますが)、その作品単独では小説の本道とはならないんじゃないかと、僕は感じてしまいました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 /font> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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