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カテゴリ:昭和期・転向文学
『赤蛙』島木健作(新潮文庫) 上記作品の読書報告の後半であります。 昭和八年、日本が第二次世界大戦へと突き進んでいく中で、作家・小林多喜二は特高警察によって虐殺されます。 そしてそのほぼ直後におこった、共産党幹部の獄中からの転向声明をきっかけに、プロレタリア文学は雪崩を打って崩壊、多くの左翼作家が、共産主義思想を放棄しました。 その時の転向の苦悩を、私小説風に描いたのが「転向文学」であります。 「転向文学」は、そもそもこのような苦悩を描くという最大公約数的テーマを持ちます。 ならばそこに描かれるものは、痛ましさ以外の何者でもないとは思うのですが、にもかかわらず、書かずにはいられないという作者の思いと倫理感が、一種の「誠実さ」となって、読者の心を強く打ちます。 この度の島木の短篇集もそうですし、かつて僕が、佐多稲子の短篇集を読んだ時にも同じ思いを強く持ちました。 ただ、佐多は、戦後も長く生き抜き、転向からさらに終戦後の変化を見つめる事ができましたが、島木健作は、昭和二十年八月十七日、終戦のわずか二日後になくなります。 前回の報告には、ほぼそこまでを書きました。 さて後半ですが、この小説集は、そんな筆者の晩年の作品を中心とした短編集になっています。 そのうちの半分は、主に前回の拙ブログで取り上げたような、私小説風の、いかにもと思わせる「転向小説」です。 一方、残りの数作は、死を間近に控えたまさしく晩年の「掌編」です。 短篇集の総題になっている『赤蛙』などがそうですね。 この「赤蛙」の外にも、「黒猫」「むかで」「ジガ蜂」などの動物が描かれています。 実はこれらの作品が、島木健作の業績の中では、「転向文学」ジャンルとは少し異なる極めて高い評価を得ている「掌編」であります。 それは、一言で言えば、例えば志賀直哉のような、あるいは梶井基次郎のような、純粋で詩的で、きわめて芸術性の高い「自然観照」を描いた作品であります。 例えば、『赤蛙』にはこんな場面が描かれます。 それはいかにもざんぶとばかりというにふさわしい飛び込み方だった。いかにも跳躍力のありそうな長い後肢が、土か空間かを目にもとまらぬ速さで蹴ってピンと一直線に張ったと見ると、もう流れのかなり先へ飛び込んでいた。さっきのあの尻の重そうな、のろのろとした、ダルな感じからはおよそかけはなれたものであった。私は目のさめるような気持だった。遠道に疲れたその時の貧血的な気分ばかりではなく、この数日来の晴ればれしない気分のなかに、新鮮な風穴が通ったような感じだった。 うーん。なんだか、志賀直哉みたいでしょ。とても瑞々しい、すばらしい描写ですよね。 『黒猫』という作品にはこんな描写もあります。 其奴の前身は誰も知らなかった。大きい黒い雄猫である。ざらにいる猫の一倍半の大きさはある。威厳のある、実に堂々たる顔をしている。尾は短かい。歩き去る後姿を見ると、その短かい尾の下に、尻の間に、いかにもこりこりッとした感じの、何かの実のような大きな睾丸が二つ、ぶらぶらしない引き締まった風にならんでいて、いかにも男性の象徴という感じであった。 うまいですねー。睾丸の描写が絶品ですねー。 こういう、自然物を描きながら、そこに作者の深い精神性を投射させるという書き方は、日本文学が得意とするもので、古来多くの名作があります。 それは特に、電車に轢かれて死にそうになった志賀直哉が書いた『城の崎にて』や、島木と同様に、結核のために自らの死を絶えず見つめざるを得なかった、梶井基次郎の諸作品に際だって見られる「孤独な詩人の魂」であります。 ただ、島木のこれらの一連の作品についても、実は異論がある事を知りました。 この晩年の作品群を、評論家・中村光夫は、かつて日本文学になかった「新しい世界観」と高く評価した一方、同じく評論家・平野謙は「むかしながらの日本的心境にほかならなかったとは、なんという哀しさであろうか」と、批判的に述べています。 (僕の理解は、平野謙よりのものですが、僕はそれを極めて肯定的に感じています。) この両者の180度異なる評価も、極めて興味深いところではあります。 しかしともあれ、今回の短編小説集は、僕にとっては久しぶりの、作者あるいは作品に対して、その誠実な魂の感じ取れる、高い信頼感を置く事のできる作品でありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 /font> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.12.19 06:49:39
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