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カテゴリ:昭和期・プロ文学
『蟹工船・党生活者』小林多喜二(新潮文庫) 去年でしたか、いえ、それとももう、一昨年になるんでしたっけ、今回報告する小説が、ちょっとしたブームになり、話題になりましたね。 私の今持っている新潮文庫も、ブックオフで105円で買ってきたんですが、奥付には、「平成二十一年二月十日 百十六刷」と書いてあります。その横が、「平成十五年六月二十五日 九十一刷改版」とありますから、この六年間じわじわと売れ続けていたということでしょうか。なるほどねー。 二作入っているんですが、どのような読まれ方をしていたんでしょうね。 読みやすさで言えば、それは圧倒的に後者の小説ですね。 『蟹工船』においては、作者は意図的に、読者が感情移入するような対象、つまり「個人」としての人物を描いていません。 (もし描かれている個人を探すなら、それは読者にとって「悪人」である「浅川」という人物でしょうか。プロレタリアートの「敵」ですね。でも、こいつしか個性ある特定人物は描かれていません。) 群衆を描くと言うことなんでしょうが、これは少し読みにくいですね。 小説、テレビ、漫画、映画、何でも同じですが、感情移入すべき登場人物が見つからないドラマは、分からないとは言いませんが、好きになりにくいです。 しかし、描写はかなり気合いの入った書き込みがされています。文章が、なにより誠実で明瞭です。 登場「群衆」を取り巻く、想像を絶するような治外法権的・非人間的労働環境が、かなり丁寧に描かれています。これは、「写実主義」ですね。この文章力は、この時代のプロレタリア小説の中では、おそらく群を抜いていたと思われます。 私は、プロレタリア小説について、さほど読んでいるわけではないんですが、徳永直の『太陽のない街』よりはかなり上質の文章になっているように思われますし、葉山嘉樹の『海に生くる人々』やいくつかの短編に比べても、安定した文章力ということで言えば、やはり多喜二に軍配が上がるように思います。(葉山嘉樹の描写には、時にはっとするような感覚的な名文が見られはしますが。) で、『蟹工船』ですが(いつもながら文章があちこちに迷走してすみません)、やはり私がどうしても気になるのは、その終わり方ですね。 新潮文庫で140ページほどなんですが、何というか、135ページくらいまでと、残りの5ページとがまるで違うんです。 この終わり方は、もう一つの『党生活者』でも同じです。 『党生活者』は、『蟹工船』と打って変わった描写方法で、一人称小説です。感情移入もしやすく、そんな意味では、『蟹工船』より遙かに読みやすいです。 文章も丁寧ですし(というよりこの文章は、『○○入門』といった本の文章ですね。きっとそんな意図が、作者にあったと思われます。いわば『共産党活動入門』)、この「初心者向け文章」の噛んで含めるような記述には、私は結構好感を持つことができました。 ところがこの小説も、最後の最後、残り1ページほどです、ここを読むと一気に「白けて」しまうんですねー。私も正直、戸惑ってしまいました。 ただ、『蟹工船』と併せて二回目だったもので、今度は少し落ち着いて考えることができました。 つまりこれは、「アリバイ」である、と。 確か、マルキ・ド・サドの小説にこんなの無かったでしょうかね。 「プロ文」とサドとは、ひどく奇妙な取り合わせだとも思えますが、要するに「読み手」の「くだらない批判」を防ぐために、あらかじめ形式的な「勧善懲悪」的予定調和エンディングを用意しておくという手法ですね。 「プロ文」にとっての「予定調和エンディング」とは、当たり前ですが、党活動にとって有意な終わり方と言うことです。 しかし、サドのSM小説ならともかく、多喜二に何故そんな必要があるのでしょうか。 うーん、どうなんでしょう。 わたくし、密かに思うんですがね、ここまで文章力があって、人間心理の細やかな機微を理解している小説家が、文学表現をあくまで革命運動の下位に置くというこの状態に、本当に満足していられるものでしょうか。 小林多喜二は、二十九歳で、特高警察の虐殺によって生涯を終えました。 あくまで仮定の話ですが、もし彼が殺されることなく小説を更に書き継いでいったとしたら、その先にあったのは、必ずしも華々しい共産党作家としての未来ばかりではなく、ひょっとすれば、「転向」とは言わないまでも、例えば戦後の左翼作家に少なからず共産党除名者がいたように、芸術の「デーモン」にとりつかれた者として多喜二も、いわゆる「党方針」と折り合いのつかないものを見つけてしまうかも知れないと、わたくしは密かに思うのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 /font> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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