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2010.04.13
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  『阿部一族』森鴎外(岩波文庫)

 上記短編集の読書報告の後半であります。
 前回の最後に僕が書いたのはこういうことでした。
 『興津弥五右衛門の遺書』は、乃木将軍の殉死に触発されて書かれた作品であるが為に、「殉死」の意味にのみ傾斜して「人間性」が歪めて描かれているのではないか、と。

 本作を初めて読んだ時、僕はこのことを考えて、これは鴎外の思考の「時代的限界」ではないかと考えました。
 あたかも島崎藤村の『破戒』に、今となっては時代的な限界が読み取れるように。

 (前回アメリカの銃規制問題に「寄り道」しましたが、実際、日本における自殺者の問題も、年間三万人を十年以上も下回ることなく、誠に深刻な問題であります。)

 ところがこの度、次の『阿部一族』を読んでいく過程で、僕は、「あっ、違う」と気がついたのであります。

 『阿部一族』は、『興津弥五右衛門の遺書』から三か月後くらいに書かれています。
 まさにその三か月の間に、鴎外は、「殉死」に対する考え方を、大きく修正してきたのでありました。

 それは、前回でも少し触れました、『興津弥五右衛門の遺書』で主人公によって殺された同僚「横田」という武士、その親族郎党への視点の移動といっていいものだと僕は考えます。

 今回も、もう少し順を追って考えてみたいと思います。
 肥後熊本の城主細川忠利の家来に阿部弥一右衛門という武士がいたが、忠利の死んだときに殉死を許されず、それが元となって、ついにその一族が尽く滅んでゆくというお話しであります。

 その発端は、実にばかばかしいとしか言い様のない物であります。
 そもそも「殉死」というものは、死に行く主君にあらかじめ許可を得ねばならないものでありました。(この段階ですでに、非人間的・形式主義的「伝統」が悲劇を生み出す要素は現れています。)
 阿部弥一右衛門にその許可が下りなかった原因を、筆者はこんな風に書いています。実はなかなか怖い描写です。

 人には誰が上にも好きな人、いやな人というものがある。そしてなぜ好きだか、いやだかと穿鑿してみると、どうかすると捕捉するほどの拠りどころがない。忠利が弥一右衛門を好かぬのも、そんなわけである。

 えー、またまた、僕の連想は飛躍していくんですがー、お許し下さい。
 同テーマの小説を思い出してしまったんです。

  太宰治『お伽草子』・「瘤取り」

 このお話の中で、太宰治は、瘤を鬼に取って貰ったおじいさんと、もう一つ瘤を付けられてしまったおじいさんの間に、ほとんど人格的な相違はないと喝破しています。
 おとぎ話によく見られる、良いおじいさんと悪いおじいさんというペアでは、全然無いと言っているんですね。なるほどそんな気がしますね。

 ではなぜ、そんな二人が結果的に正反対なものを引き受けてしまったのかと言うことについて、「心理通・人間通」の太宰治はこのようにまとめています。
 「瘤取り」のラスト・シーンです。

 性格の悲喜劇といふものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れてゐます。

 うーん、うまいものですねー。
 鴎外もこんな風なお話しを考えれば、もっと明るく読めたんですがねー。
 (今ふっと思ったんですが、ひょっとしたらその逆、太宰はこの「瘤取り」を、『阿部一族』にインスパイアーされて書いたんじゃないかと。でも、まさか、ね。)

 閑話休題、「暗い」『阿部一族』に戻ります。
 そんな「性格の悲喜劇」ゆえに、阿部一族は老人・女・子供も含め、尽くが死んでしまうという全くの「無駄死に」ぶりを、筆者鴎外は、実に冷静に淡々と描いていきます。
 その描きぶりは、実験室における科学者の仕事を彷彿とさせるような正確さと論理性であります。

 『興津弥五右衛門の遺書』から、三か月。小説家であると同時に、近代科学の徒であり、医者でもあった鴎外は、やはり「殉死」の持つ非人間的側面に触れないわけにはいかなかったのだと思います。

 (しかし鴎外の凄いのは、特に本作の前半において、従容として死に臨む武士達の姿を、やはり淡々とかつ実に暖かい慈しみを込めて描いているところにあります。)

 作中、阿部一族のみならず、その討ち手であった「竹内数馬」の、やはり「殉死」をめぐる悲劇や、阿部家の隣人「柄本又七郎」の行為と世間の評価の歪んだあり方にもきちんと冷静な目を向けつつ、鴎外は、人間性を歪める「権威」や「伝統」に対して、声高という形は取らぬながら、しかし確として疑問あるいは反対を唱えていると、僕は強く思いました。

 さて、「明治文壇の二大巨頭」として漱石に比べた時、陸軍軍医であった鴎外はともすれば「保守的」に見られはするのですが、なかなかどうして、そのような組織に属していた鴎外の方が漱石よりも遙かに具体的に、「見据えるべきもの」を捕捉していたのかも知れませんね。

 実は僕は、「二大巨頭」の好みとしては「漱石派」なんですが、今回は鴎外に、大いに感服いたしました。


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Last updated  2010.04.13 06:45:21
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