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カテゴリ:明治期・反自然鴎外
『山椒大夫・高瀬舟』森鴎外(角川文庫) 上記作品の読書報告の後編であります。前回述べていたことは、 安寿、恋しや、ほうやれほぅ。 厨子王、恋しや、ほうやれほぅ。 ……うーん、なんだか懐かしいですねー。 現在、日本アニメといえば、数少ない、わが国が世界に発信している偉大な日本文化ですが、その黎明期の作品の一節(多分そうだと思うんですが)。 そういえば同時期のアニメに、『わんぱく王子の大蛇退治』、確かこんなタイトルだったように思うんですが、そんなアニメもありましたよねー。 『西遊記』めいたのもありましたっけ。 うーん、語り出すと切りがないので、残念だけどやめます。鴎外に戻ります。 かつて私は、鴎外と彼の書く小説作品について、漠然とこんな風に考えていました。 鴎外にとって小説執筆とは、「手すさび」は言い過ぎとしても、一種趣味的なものであり、自らの知性に引っかかった状況や問題意識を、実験室での科学者のように、知的に処理して、そして読者に示したものではないかと。 ところが今回この5つの作品を読んでみて、なんと言いますか、今更ながらに、鴎外が実に饒舌にそして真摯に、「自己告白」をしていることに気が付きました。 鴎外作品を系統立てて読んでいませんので、それが全作品のわたることなのか、この時期だけのものなのかまでは分かりませんが、もしこの時期に固有のものであるなら、それはやはり、鴎外が目前に晩年を控え、「来し方行く末」の意味を再考した結果ではないかと思われます。 さほどに、これらの作品の底には、「生きる事の意味への問いかけ」が強く見られます。 例えば前回のブログでの報告の最後に、私は『高瀬舟』における「安楽死」の本当の意図を知りたいように書きました。 しかし、今回一連の作品を連続して読んで気がついたことは、以前よりこの作品には、「安楽死」と「自足」という二つのテーマがあると言われてきましたが、少なくとも鴎外にとって切実なテーマは、「安楽死」なんかではないということでした。 ただ、一般的にそう思われていることについては、理由がないわけではないと言うことも感じました。それは、鴎外がそう読まれるように作品を導いて書いているからですね。二つのテーマが描かれている順序とか、例えばこんな表現。 庄兵衛は只漠然と、人の一生といふやうな事を思つて見た。人は身に病があると、此病がなかつたらと思ふ。其日其日の食がないと、食つて行かれたらと思ふ。萬一の時に備へる蓄がないと、少しでも蓄があつたらと思ふ。蓄があつても、又其蓄がもつと多かつたらと思ふ。此の如くに先から先へと考へて見れば、人はどこまで往つて踏み止まることが出来るものやら分からない。それを今目の前で踏み止まつて見せてくれるのが此喜助だと、庄兵衛は気が附いた。 庄兵衛は今さらのやうに驚異の目を瞠つて喜助を見た。此時庄兵衛は空を仰いでゐる喜助の頭から毫光がさすやうに思つた。(『高瀬舟』) この「自足」の捉え方には、やや説得力の欠けるところがありますね。かなり即物的で貧相です。 ではこの「自足」にもっと肉付けをすると、それは『ぢいさんばあさん』になります。 この『ぢいさんばあさん』と言う作品は、いかにも鴎外好みという感じの作品です。 伊織事件の陰には、武士という存在自体が持っている矛盾が垣間見えますが(かつて鴎外は一連の「殉死小説」でこのテーマに触れました)、今回はそれに焦点を合わせるのではなく、運命の有り様に従容として従う「知性」の存在を描きます。 るんは美人と云ふ性の女ではない。若し床の間の置物のやうな物を美人としたら、るんは調法に出来た器具のやうな物であらう。体格が好く、押出しが立派で、それで目から鼻へ抜けるやうに賢く、いつでもぼんやりして手を明けて居ると云ふことがない。顔も顴骨が稍出張つてゐるのが疵であるが、眉や目の間に才気が溢れて見える。(『ぢいさんばあさん』) ここに描かれる「ばあさん・るん」は、鴎外が共感してやまない作中人物の姿であります。 そしてさらに鴎外にとってこの「るん」の先にあるものは、おそらく『寒山拾得』の二人の僧侶=仏の奔放な暮らしぶりでありましょう。 晩年の鴎外は、己の理想とする生き方、それを強く求めて史伝の世界に分け入っていきます。 しかしその前に、彼の理想的な人生の青写真が、これらの掌編には断片的にしかし実に興味深い真摯な「自己告白」として、描かれています。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.06.01 06:32:36
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