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2010.06.12
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  『檸檬』梶井基次郎(新潮文庫)

 僕が若かった頃、とても好きであった作家が三名いました。
 どの作家も、昭和の初年代あたりを主な活動期にしていましたが(これは、たまたまですかね。いえ、そうではないでしょうね、文学史的には一種の必然であったように思います。たまたまというなら、その時期に大きな戦争が重なったことの方がたまたまでしょう。)、以下の三作家です。

   太宰治・中島敦・梶井基次郎

 この中で、現在でも日本文学史的にメジャーな作家は、やはり太宰治だけですかね。
 というより、よく考えてみれば、後の二名は、生前のリアルタイムにおいても決して「メジャー」な作家ではなかったですね。
 彼らはやはり、あまりに早く亡くなりすぎてしまいました。
 三人の享年を並べるとこうなります。

   太宰治(三十九歳)・中島敦(三十三歳)・梶井基次郎(三十一歳)

 こうして並べてみると、太宰が三十代をなんとか生き抜いたという「差」は、大きいですよねー。
 今調べてみたのですが、太宰の三十一歳の時の主な作品といえば、『駆込み訴え』『走れメロス』なんですね。
 まさに太宰の充実期・豊穣期・収穫期の開始時期ではありませんか。

 さて、その太宰の収穫期の入り口で鬼籍に入ってしまった作家が、梶井基次郎であります。
 実は僕が初めて個人全集を買ったのが、この作家でした。筑摩書房からの三巻本です。
 最後の巻の書簡を読み終えた後、自分でも少し感動したことを今でも覚えています。

 今回、梶井の主な作品について何度か目の読書をして、改めて驚いたことがありました。
 梶井の作品の評価については、伊藤整の説いた、「志賀直哉とボードレール」の影響の指摘が端的に語っていると思いますが、今回驚いたというのは、その「スタイル」を梶井は晩年(若き晩年!)ぎりぎりまで彫心鏤骨、洗練させ続けているということでした。

 例えば、名作と名高い『冬の蠅』。この晩年の作品などは、冒頭から天にも昇らんとする勢いの文章であります。

 冬の蠅とは何か?
 よぼよぼと歩いている蠅。指を近づけても逃げない蠅。そして飛べないのかと思っているとやはり飛ぶ蠅。彼等は一体何処で夏頃の不逞さや憎々しいほどのすばしこさを失って来るのだろう。色は不鮮明に黝んで、翅体は萎縮している。汚い臓物で張切っていた腹は紙撚のように痩せ細っている。そんな彼等がわれわれの気もつかないような夜具の上などを、いじけ衰えた姿で匍っているのである。
 冬から早春にかけて、人は一度ならずそんな蠅を見たにちがいない。それが冬の蠅である。私はいま、この冬私の部屋に棲んでいた彼等から一篇の小説を書こうとしている。


 梶井の小説の底辺には、ほとんどすべてに疲労・倦怠・不健康などの影が見えます。
 現実に、その延長線上に自らの肉体の滅び(それも遠くない将来)を見つめ続けねばならない筆者の精神が、必ずや少しずつ少しずつ傷ついていったであろうことは我々にも容易に想像がつきます。

 しかし、少なくとも梶井はそれを創作態度に持ち込もうとはしませんでした。
 不健康な日々を行為を描きながら、その描写には、安易さやふて腐れや放り出しやといった、不健康な要素は一行もありませんでした。
 きっとそこに、彼の矜持があったのだと思います。

 そのための「武器」が、ボードレールの妄想や比喩であり、志賀直哉のあの厳格・強靱な文体であったのでしょう。
 そして、それを晩年まで研ぎ澄ませていった筆者の精神力に、今回読んでいて僕は非常に感銘を受けました。

 それともう一つとてもおもしろかったのは、彼の晩年の作品にまで通じている表現要素が、ほぼすべて処女作の『檸檬』に相似形に描かれているということでした。

 それは『檸檬』の表現でいえば、「みすぼらしくて美しいもの」と「錯覚=妄想」です。
 この二つが、彼の描く死を見据えた美意識の中に、最後まできちんと読みとれるということに気がつきました。

 そしてそのことによって、早過ぎた筆者の死を惜しむ気持ちはもちろんあるものの、彼の残した作品群がきれいな円環を閉じていることに、個々の作品に描かれる「不健康」とは全く姿を異にした、透明な安定感のようなものを、ちらりと、僕は感じるのでありました。


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Last updated  2010.06.13 10:29:23
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