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カテゴリ:昭和期・歴史小説
『神州纐纈城』国枝史郎(大衆文学館講談社) この本からの連想があって、久しぶりに三島由紀夫の『小説とは何か』をぱらぱらと捲ってみました。 さすがにいろいろ感心するような視点のテーマが、とてもわかりやすく書かれていますよねー。 例えば、ここは、小説の重要な魅力の一つは「謎解き」であるが、一旦それが解明されてしまうと人々は再読の興味を失う、と書いた後の部分です。 そこで、小説が文学であるためには、二次元ながら、この過程を単に手段たらしめず、各部分がそれぞれ自己目的を以て充足しうるやうな、さういふ細部で全体を充たし、再読しても、手段としての機構ではなく、自足した全体としての機構のみが露はにされるやうに作るべきであり、それを保障するものが文体といふわけだ。しかし、趣味が異様に洗練されると、目的それ自体が卑しいものと見做されがちになり、読者の低い好奇心が知りたいと望むものを、作者が軽侮の目で見るやうになり、あげくのはては、作者自身の目的をできるだけ読者の目的(知りたいといふ謎解きの目的)から遠ざけようとするあまり、つひには手段としての細部を目的化し、小説からその本来の目的を除去したくなつてくる。 ここに小説におけるプロットの軽視がはじまる。 なるほどね、こういう訳で、日本の自然主義小説はどんどん面白くなくなっていったんですよねー。 で、こちらの方の話を始めると、それはそれで面白くなるんですが、冒頭の国枝史郎の小説の話に戻ります。 例えば、バッハのあの名作の数々は、メンデルスゾーンが再発見したんですよね、確か。 もっとも、あれだけの「人類の遺産」ですから、もしメンデルスゾーンが再発見しなくても、それは時間の問題ではあったでしょうが。 で、バッハよりはかなり(かなりかなり?)小振りになりますが、国枝史郎『神州纐纈城』の再発見であります。 結果的にその役割を大きく担ったのが、三島由紀夫の上記の文芸評論であります。 『小説とは何か』には、本作についてこうあります。 一読して私は、当時大衆小説の一変種と見做されてまともな批評の対象にもならなかつたこの作品の、文藻のゆたかさと、部分的ながら幻想美の高さと、その文章のみごとさと、今読んでも少しも古くならぬ現代性とにおどろいた。これは芸術的にも、谷崎潤一郎氏の中期の伝奇小説や怪奇小説を凌駕するものであり、現在書かれている小説類と比べてみれば、その気稟の高さは比較を絶してゐる。事文学に関するかぎり、われわれは一九二五年よりも、ずつと低俗な時代に住んでゐるのではなからうか。 「文藻のゆたかさ」なんていい表現ですよねー。「文藻」とは何か、思わず辞書で調べてしまいました。 谷崎潤一郎についても触れていますが、これは『乱菊物語』とか『武州公秘話』なんかを指すんでしょうかね。でも中期の谷崎は「凡作」も結構多かったですものねー。 後半部に「われわれは一九二五年よりも、ずつと低俗な時代に住んでゐるのではなからうか」とありますが、それを「低俗」というのかどうかは僕にはよく分かりませんが、文体の「堅牢性」といったものについては、確かに現在小説のとても及ばないようなところにあると感じました。どこを取り出してもいいのですが、例えばこんな部分。 洞窟の中は寒かった。氷のような冷たいものがひしひしと肌に逼って来る。洞窟の中は薄暗かった。岩を刳り抜いて作られた龕から、獣油の灯が仄かに射し、石竹色の夢のような光明が、畳数にして二十畳敷きほどの、洞窟の内部を朦朧と煙らせ、そこにあるほどの器具類を--岩壁に懸けられた円鏡や、同じく岩壁に懸け連ねられた三光尉、大飛出、小面、俊寛、中将、般若、釈迦などの仮面や、隣室へ通う三つの戸口へこればかりは華美な物として垂れ掛けた金襴の垂れ衣等を、幻想の国のお伽噺のように、模糊髣髴と浮き出させている。 結局こういった自己増殖型の伝奇小説を書く能力というものは、溢れるように浮かんでくる「思いつき」のようなプロットの断片を、どうトリビアルに掬い取り、文体として追いつめていくかにかかっているように思います。 とすれば、その作業は、あまり「意味を持たない」素材を、ひたすら表現として研ぎ澄ませていくという、一種『死の家の記録』に出てくるような辛い作業になっていくように思えてきます。 うーん、これはなかなか、大変、というか、すごい才能でありますねー。 泉のように湧いて出るストーリーテリングの能力に、場面を構造的かつ流麗に書き上げる筆力とくれば、それはもう怖い物なしの最強コンビではないですか。 ただ最後に一つ、少し無い物ねだりを考えてみますと、物語が縦に深まらず横にひたすら広がっていくという展開は、題材に対してやや「マニアな嗜好」を持つ読者以外は、やはり少し「飽きてくる」のではないか、と。 しかし、本作のような伝奇小説に対する「マニアな嗜好」とは何かと考えると、それは、うーん、ひょっとしたら、「活字中毒嗜好」のようなものではないでしょうか。 もし活字中毒者の嗜好に合致する作品ということであれば……、あ、やはり、最後も誉め言葉になってしまいましたね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.06.16 06:26:13
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