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カテゴリ:明治期・浪漫主義
『高野聖・眉かくしの霊』泉鏡花(岩波文庫) 嵐山光三郎という作家がいらっしゃいますが、なかなか優れた本をたくさん書いていらっしゃいます。 特にここ数年は、いろいろな切り口で近代日本文学者について、作家論を書いていらっしゃいまして、その成果の一つが現在新潮文庫に入っている『追悼の達人』や『文人悪食』などでありましょう。 どちらもタイトルから作品の切り口が想像されますが、後者の『文人悪食』は作家の好きな食べ物をきっかけにして、なかなか面白い作家論になっています。 一方前者の『追悼の達人』のほうは、作家が別の作家に書いた追悼文や弔辞の紹介を基本にしながら、そこから読み取れる作家同士の人間関係や、臨終時の様子にまで及んでいます。 食べ物の話も面白いですが、こちらはもっと面白い気がします。 (作家に限らず、著名人の臨終時の様子に絞り込んで書いた「奇書」には、山田風太郎の『人間臨終図巻』三巻があります。この本も、無類のおもしろさです。) さて、その『追悼の達人』には、49人の作家たちの追悼文・弔辞などが描かれています。そして、片っ端からそんな文章を読んだ作者の、追悼文・弔辞に対する基本的な理解は、 「どんな大人物でも死後は誰かに貶される」 というものであります。うーん、これはなかなか興味深い考え方でありますねー。 こんな部分があったりします。 …したがって死期が近いのを悟った老大作家は、文芸雑誌編集部宛遺言として「自分の死後、こいつとこいつには追悼文を書かせるな」と書き残しておくのが賢明だが、そういった文書を残すと、その文書までが遺品として掲載されてしまうおそれがあるから、やっぱり書かぬほうがいい。 全くどうしようもないなぁ、という書きぶりが、とても面白いですね。 そんな中、ほとんど唯一と言っていい例外作家が、驚くことに泉鏡花であります。嵐山氏はこう書いています。 ひたすら故人を美化したり、悲しい淋しいといっためそめそした追悼はない。そうであるのに、鏡花への思いは深く、鏡花の神秘性はいっそう濃くなる。これは稀有な例である。追悼文で、故人の知られざる一面が語られ、それはすべていい話ばかりで、すがすがしい。鏡花がいかに慕われていたかがわかる。 鏡花という作家の人柄について、確かに私はほとんど何も知りません。 しかし、数少ない読んだ作品からの印象では、人間嫌いの幽霊好き、というものであるんですが、この印象は間違っていたんですねー。 ただ、上記の文のすぐ後には、こうも書いてあります。 それと同時に、鏡花の文芸の力がいかに強靱であったかがわかるのである。 なるほど、作家自身の人柄もさることながら、やはり優れた実績がそのように人を動かすと言うことでありますね。 さて、その泉鏡花の出世作が『高野聖』であります。 私はこの小説をたぶん三回読んだと記憶するのですが、今回読んでみて、思いの外に鏡花は「遠慮」しているんじゃないか、と感じました。 何を遠慮しているのかというと、「幽霊話を書く」ということについてです。 だって、山中に住むこの粋な年増女性が幽霊(妖怪)であるという「絶対的な証拠」はどこにも書かれていないんですものね。川で裸になって水浴びするシーンが印象的なもので、あまり気がつかなかったのですが、この女性を描いている部分は、作品全体のバランスで言うと、思いの外に少なそうです。 (バランスについて言えば、『眉かくしの霊』も同様です。幽霊はほとんど出てきません。) これはおそらく時代的なものだと思います。たぶん、こういった江戸時代の草紙めいた作品に対する批判が、かなりあったのでしょう。 むしろ今の作家の方が、開き直って「堂々と」荒唐無稽な幽霊を描くと思いますね。 鏡花はやはり文明開化の明治時代に、幽霊話を書くことにある種の遠慮があり、作品内にもそのことのアリバイが、いくつか見られます。 ただ、だからといって、鏡花が怪異描写をないがしろにしたかというと、それは私が指摘するまでもなく、そんなことは全然ないわけで、「遠慮」しつつも、鏡花は書きたいところはしっかり「厚かましく」書いています。 そしてこの「遠慮」と「厚かましさ」の混交が、結果的に鏡花の神秘性(と親愛感)につながったのではないでしょうか。そう考えると、上記嵐山氏の文章にある「慕われる鏡花」という鏡花像も、なるほど無理なく納得できそうであります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.06.23 06:38:59
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