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カテゴリ:昭和期・三十年男性
『燕のいる風景』柴田翔(新潮文庫) 今は昔、本好きの友人達の間で庄司薫の「薫君シリーズ」が流行ったんですが、その時、庄司薫に近い位置にいる作家として柴田翔の名前を僕は知りました。 『されど我らが日々』なんて小説です。しかし、手に取ったりはしながらも結局読まなかったんですね。なんか少し違う、という感じがしていたんでしょうかねー。 で、それから四半世紀も経って、ふとしたきっかけで『されど…』を読みました。 で、さらに続いて『贈る言葉』という小説も読みました。 しかしその時の感想は、すでに読むべき時機を遙かに逸している、というものでした。 どちらも、簡単に言えばインテリゲンチャ予備軍の苦悩とでもいうのがテーマでしょうが、インテリにもなれずこの年になってしまいますと、正直なところちょっと甘ったるいんじゃないかと、思ってしまいました。 (毎度毎度の横滑り話ですが、少し前に漱石の『それから』を読んだ時にも同様の物を感じました。だから、一概に私は筆者の小説を批判しているってばかりではないんですね、たぶん。) しかしもし私が、10代後半とか20代前半の年でこの本を読んでいたら、私は主人公や筆者に大いに共鳴できたでしょうか。 うーん、考えたところで詮無いことでありますが、やはり、なんか少し違うように思いました。 実は今回の読書報告の骨格も、どうもそんな感じになりそうなんですが……。 明治・大正時代とかの古い小説を読んで、そして、その合間に本作のような昭和の後半の小説を読みますと、時に歴史感覚が倒錯するように感じてしまうのですが、なぜでしょうね。そんなことって、私だけが勝手に感じている事なんでしょうか。 明治・大正の小説に時代を超えた普遍的な新しさを感じ、昭和後半の小説には、どうも古くさい感じがして読みづらい、と。 まー、少し客観的に考えますと、明治・大正期の小説で現在も生き残っている作品には、それだけ歴史のヤスリに耐えた真実性があるのだ、ということですかね。 しかしそんな風に考えてしまうと、もうそれだけで、今回の作品なんてかなり批判的に言い切ったことになってしまって、少し困るんですがー。 うーん、そんな簡単なものでもないんでしょうね、きっと。 気になる点を、少しまとめてみますね。 まず作品全体に流れているトーンなんですが、おおざっぱに言うと、「かつて大きな挫折があった」と、そんな感じなんですねー。 ニヒリズムと言いますか、無力感と言いますか、少し意地悪に言いますと、アンニュイに溢れつつも高みに立った冷たい視線が感じられる、という感じ。 この虚脱感の原因のようなものが明示されず(ある種の読者にとっては当然の状態であるという認識なんでしょうか)、そして描かれる視線に少し厳しい言葉で言いますと「蔑視」の様なものが感じられてとくるとなると、これはちょっと辛いような気がします。 しかしこれは、時代的なものが関係しているのでしょうか。 たぶんしていると思います。その時代を覆っていた「認識」ではなかったかと、私は思います。(そしてその「認識」が、古くささを感じさせるのですかねー。) もう一つ感じるのは、これは恐らく同根なのだと思いますが、非常に観念的な描写という気がすることです。 もちろん筆者もそのことには気づいている、というか、効果の一つとして意識的に描いているのだと思います。しかしなんと言いますか、自らの文章は自らが隅々まで支配しているという描写「理論」が、ひょっとすれば、現代の感覚と少しズレ掛かっているのかも知れません。 うーん、なんか困った報告になってきました。 ともあれ、小説が風俗を描写する形のものである以上、風俗の風化は免れません。 しかしそんな風化が際立つ期間というものは、一度完全に風化してしまうまでの「完全変態」のための「蛹」の様な期間であるのかも知れません。 「蛹」は、最終形態ではありません。 優れた作品は、その次にこそ、本来の生き生きとした普遍的な「最終形態」の姿を、初めて私たちの目の前に現してくるのでありましょう。 今少し、時が必要なのかも知れません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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